化野念仏寺・化野 (京都市右京区) 
Adashino-nembutsu-ji Temple
化野念仏寺 化野念仏寺 
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虫塚


吐夢地蔵尊


鳥居、仏舎利


仏舎利


地蔵尊





西院の河原


西院の河原、十三重塔


西院の河原




















西院の河原 

西院の河原


鐘楼 


鐘楼


梵鐘







千灯供養


本堂



本堂



本堂、本尊・阿弥陀仏




地蔵堂




地蔵堂



地蔵堂



地蔵堂、延命地蔵尊



みず子地蔵尊


みず子地蔵尊


天満宮



天満宮



天満宮



天満宮







社務所





六面六体地蔵




豪商・角倉素庵(すみのくら-そあん、1571-1632)の墓、竹林の中にある。


【参照】周辺の町並み


【参照】千灯供養の頃、周辺で行われる光のパフォーマンス
 化野(あだしの)は、古くより葬送地になっていた。化野念仏寺(あだしの-ねんぶつ-じ)は、正式には念仏寺という。号は華西山東漸院(かさいざん-とうぜんいん)という。
 浄土宗。本尊は阿弥陀如来像を安置している。
 水子供養、死者供養の信仰がある。
◆歴史年表 平安時代、弘仁元年(810-924)、空海(弘法大師)が、付近にあった庶民の野晒しの遺骸を埋葬したことに始まるという。小倉山寄りを金剛界、曼荼羅山寄りを胎蔵界とし、千体の石仏をこの地に集めたという。さらに、中央を流れていた曼荼羅川の河原には、五智如来(ごちにょらい)の石仏を立てた。五智如来とは密教の5つの知恵を如来に当てたものをいう。一宇は当初、五智如来寺といわれ、大覚寺所轄の真言宗の寺だったという。(寺伝)
 平安時代後期以降、この地は埋葬地になったともいう。
 中世(鎌倉時代-室町時代)以降、石仏、石塔が立てられる。
 鎌倉時代初期、浄土宗開祖・法然(1133-1212)が寺を念仏道場とした。以来、浄土宗に改宗し、寺名も「念仏寺(五智山念仏寺)」に改められる。
 江戸時代、1712年、寂道(じゃくどう)により、現在の本堂が再建されている。
 
1787年、小石塔、石仏群はまだなく、本堂、庵、鐘楼、天神社、稲荷社のみが描かれている。(『拾遺都名所図会』)
 
近代、1903年/1904年、念仏寺近くの福田寺の住僧が、石塔を土中より掘り出し、無縁墓地にしたという。
 明治期(1868-1912)中期/1903年-1904年、地元の人々の協力を得て、周辺の石塔、石仏を集めた。釈尊宝塔説法を聴く人々になぞらえ祀り、賽(さい)の河原に模して「西院(さい)の河原」と名付けたという。 
◆空海 
奈良時代-平安時代前期の真言宗の開祖・空海(くうかい、774-835)。男性。姓は佐伯氏、幼名は真魚(まお) 、諡号は弘法大師。讃岐国(香川県)の生まれ。父・豪族の佐伯田公(義通)、母・阿刀氏。788年、15歳で上京し、母方の叔父・阿刀大足に師事し儒学を学ぶ。791年、18歳で大学明経科に入るが、中途で退学し私渡僧(しどそう)として山岳修行を始め、四国の大滝岳や室戸崎などで山林修行した。797年、『聾瞽指帰(ろうこしいき)』を著す。798年、槙尾山寺で沙弥になり、教海と称する。804年、東大寺戒壇院で具足戒を受ける。遣唐使留学僧として唐へ渡り、805年、長安・青竜寺の恵果(けいか)により両界、伝法阿闍梨の灌頂を受ける。806年、当初の20年の義務期間を2年に短縮して帰国、多くの経典、密教法具などを持ち帰る。入京できず大宰府・観音寺に住した。809年、入京を許される。810年、高雄山寺(神護寺)を経て、811年、乙訓寺に移り、約1年間任に当たった。別当になる。812年、乙訓寺を訪れた天台宗開祖・最澄は、空海と会っている。その後、空海は高雄山で最澄らに金剛界結界灌頂を行った。後、二人は決裂し、断絶する。813年、東大寺別当、819年頃/818年、高野山を開く。822年、東大寺に灌頂道場(真言院)を開く。823年、東寺を真言密教の道場にした。824年、高雄山寺を神護寺と改名する。神泉苑で祈雨の修法を行う。827年、大僧都になる。828年、綜芸種智院を創立した。832年、高野山で万灯会、834年、正月、宮中中務省で後七日御修法を営む。830年、『秘密曼荼羅十住心論』を著す。高野山で亡くなり、比叡山東峰に葬られた。62歳。
◆法然 平安時代後期-鎌倉時代前期の僧・法然(ほうねん、1133-1212)。男性。諱は源空、号は法然房、幼名は勢至丸。美作国(岡山県)の生まれ。1141年、9歳の時、父・漆間時国は、夜襲により殺される。1145年、13歳で比叡山に上り、西塔北谷の持法房源光に師事、黒谷慈眼坊叡空の庵室に入った。1147年、皇円の下で出家受戒する。1156年、比叡山を下り清凉寺に参籠、南都学匠も歴訪する。再び比叡山に戻り黒谷報恩蔵で20年に渡り一切経を5回読む。1175年、唐の浄土宗の祖・善導の「観経疏」の称名念仏を知り、比叡山を下りた。西山、広谷(後の粟生光明寺)の念仏の聖・遊蓮房円照に住した。吉水に草庵(吉水の善坊)に移り、阿弥陀仏を崇拝し、ひたすら南無阿弥陀仏を口で唱える専修念仏の道場になる。1186年、大原談義。1190年、東大寺で浄土三部経を講じる。1204年、延暦寺衆徒による専修念仏停止を天台座主に要請した 「元久の法難」が起きた。1206年、後鳥羽上皇(第82代)の寵愛した女官(鈴虫、松虫)らが出家した事件「承元(建永)の法難」により、専修念仏の停止になり、1207年、法然は四国・讃岐に流罪となる。10カ月後に赦免されたが入洛は許されず、摂津・勝尾寺に住み、1211年、ようやく帰京した。草庵は荒れ果て、青蓮院の慈円僧正により、大谷の禅房(勢至堂付近)に移り、1212年、ここで亡くなった。80歳。
◆角倉 素庵 室町時代後期-江戸時代前期の豪商・文化人・角倉 素庵(すみのくら-そあん、1571-1632)。男性。名は光昌、玄之(はるゆき)、字は子元、通称は与一、別号に貞順・三素庵。父・角倉了以、母・吉田栄可の娘の長男。父の朱印船貿易、河川開発事業を継承した。1588年、藤原惺窩より儒学を学ぶ。後に林羅山を知り、二人を引き合わせる。本阿弥光悦より書を習う。後に「寛永の三筆」の一人とされた。1599年、『史記』の刊行以降、1601年頃まで、光悦の協力を得て嵯峨本を刊行する。1603年から、父・了以の安南国東京(インドシナ半島)との朱印船貿易に関わり、日本国回易大使司を称し、角倉船を海外派遣した。父の大堰川、富士川、天竜川の開削、鴨川水道、高瀬川の運河工事を補佐した。1606年-1609年、甲斐、伊豆鉱山の巡視、1614年-1615年、大坂の陣で船便による物資運搬に貢献した。1615年、幕府より高瀬船、淀川過書船支配を命じられ、山城の代官職に就く。1627年、隠棲した。61歳。
 歌、茶の湯、書は角倉流(嵯峨流)を創始した。近世の能書家の五人の一人。
 墓は化野念仏寺(右京区)、二尊院(右京区)にもある。
◆内田 吐夢 近現代の映画監督・内田 吐夢(うちだ-とむ、1898-1970)。男性。岡山市の生まれ。父・徳太郎(世襲・源蔵)、母・こう。尋常高等小を中退し、1912年、横浜のピアノ製作所に奉公に出る。1920年、横浜・大正活映に入社し、トーマス・栗原監督の助手になる。「喜劇・元旦の撮影」では主演した。1922年、牧野教育映画に移り、「噫小西巡査」を衣笠貞之助と共同監督し初監督となる。その後、旅役者の一座で放浪生活に入り、1926年、日活京都大将軍撮影所に入社した。1928年、入江たか子により「けちんぼ長者」を撮る。1929年、傾向映画「生ける人形」。1932年、村田実、伊藤大輔、田坂具隆らとともに日活から独立し、新映画社を設立し、その後、解散する。1933年、新興キネマ、日活多摩川撮影所に移る。「土」(1939)など社会派、「歴史」(1940)など歴史物も撮る。1941年、日活を去り、新会社設立失敗後、満州映画協会に在籍した。1945年、甘粕正彦の自決現場に立ち会う。1954年、帰国し東映に入社した。「大菩薩峠」3部作(1957-1959)、「宮本武蔵」5部作(1961-1965)、「飢餓海峡」(1964)などを撮る。72歳。
 境内にゆかりの「吐夢地蔵」が安置されている。
◆化野 化野(あだしの)は、小倉山の麓、二尊院から念仏寺にいたる一帯を指している。化野はかつて、東の鳥辺野、北の蓮台野と並ぶ三大葬地のひとつとして知られていた。「阿大志野」、「仇し野」とも記された。
 化(あだし)は、「儚(はかな)い、虚しい」を意味した。「生」が化して「死」し、転生して再生する。極楽浄土に往生する願いを意味する。
 枕詞にもなった。
◆仏像 木造「阿弥陀如来坐像」(150㎝)は、鎌倉時代作の美仏になる。鎌倉時代の仏師・湛慶(1173-1256)作とされ、鎌倉彫刻の秀作といわれている。瞳に水晶が入る。
◆石仏・石塔 境内「西院(さい)の河原(賽の河原)」(東西18m、南北27m)では、約8000体ともいわれる石仏・石塔が立てられている。
 中央に阿弥陀仏像と十三重塔が立つ。阿弥陀仏は説法を説き、それを聴く人々の姿になぞらえて並べられているという。また、極楽浄土を表しているともいう。
 阿弥陀仏のほか、地蔵、板碑など室町時代前後のものが多く、江戸時代のものも混じる。これらは、明治期(1868-1912)中期に、地元の人々によって集められた。化野に葬られ、その後、散乱、埋没していた何代にもわたる無縁仏を供養したという。入口に、鎌倉時代の石仏、薬師如来、弥陀如来が安置されている。
 「誰とても とまるべきかは あだし野の 草の葉ごとに すがる白露」、西行。 
◆六面六体地蔵 
「六面六体地蔵」が祀られている。地蔵は六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人道・天道)の六つの世界に居り、そこに居る人々を救う姿を現した。
 水をかけて罪障を洗い流し、天道から人道へ右回りに拝む。その際には、「オン・カカカ・ビサンマエイ・ソワカ」と唱える。
◆吐夢地蔵 「吐夢地蔵」は、映画、不朽の名作といわれる「大菩薩峠 第一話」(1957)で知られる、映画監督・俳優・内田吐夢(うちだ とむ)に因む。
 地蔵は、映画の冒頭で丑松が、石の地蔵を彫る場面で実際に使われた。映画撮影終了後、内田は地蔵尊を気に入り、鳴滝の自宅に安置した。その没後、東映・小道具倉庫に遷されたままになる。
 現代、1970年、内田没後の100か日に、当寺で開眼供養が行われた。以後、「吐夢地蔵尊」と呼ばれ境内に安置されている。像高90cm、御影石製。
 毎年、追悼会(10月10日)が行われていた。
◆仏舎利 レンガ積みの「仏舎利(ぶっしゃり)」は、住職・原弁雄師がインドの仏教遺跡・サンチー僧院(マディヤ・プラデーシュ州)の大僧正と親交を深めて安置された。レンガ積みによる。
 仏舎利の前には鳥居(トラナ)が立てられている。横の笠木下の貫は2本あり、京都では唯一例になる。
◆鳥居 天満宮は、宗忠鳥居の型式になる。
◆文学  ◈平安時代、和歌に「あだしのの草村にのみまじりつつ匂ひはいまや人にしられん」(『源順集』一三九)、「あだしののくさもねながらあるものをとこなつにのみつゆのおくらん」(『斎宮女御集』二四〇)、「あだし野のあさぢおしなみ吹く風に露の命のおき所なし」(『基俊集』九十)などがある。
  ◈平安時代の式子内親王(1149-1201)は「くるるまも待つべき世かはあだしのの末葉の露に嵐立つなり」(『新古今和歌集』)と詠んだ。
  ◈平安時代の紫式部(?-?)の『源氏物語』第53帖、『宇治十帖』第9帖の「手習」巻では、浮舟に惹かれた中将が、「あだし野の風になびくな女郎花 われしめ結はん道とほくとも」と詠んだ。
  ◈藤原良経(1169-1206)には、「人の世は思へばなべてあだしののよもぎがもとのひとつの白露」(『秋篠月清集』)がある。
  ◈鎌倉時代の吉田兼好(1283?-1353?)は「あだし野の露消ゆるときなく、鳥部山の煙立ち去らでのみ、住み果つるならひならば、いかにもののあはれもなからん。世は定めなきこそ、いみじけれ。」と記した。(『徒然草』7段)
  ◈川端康成(1899-1972)の小説『美しさと哀しみと』では、主人公・上野音子が母とともに千燈供養に参る。『古都』(1962)では化野・嵐山が描かれる。
◆遺跡 1993年に化野町で、12世紀後半に中国華南地方で作られ輸入された、褐色釉薬陶器の陶器壺(京都市文化財)が出土した。蔵骨器として使用された。壺は胴上に黒褐色の鉄釉薬をかけ流していた。高さ20.8㎝、口径9.1㎝。
 蓋(京都市文化財)は京都の仏所で作られていた。金銅製の金で、上面に毛彫りの蓮華座、上に梵字「ア」が彫られていた。直径10.1㎝、厚さ0.1㎜。
◆映画  ◈時代劇映画「古都」(監督・中村登、1963年、松竹大船)では、千重子(岩下志麻)が寺を訪れる。
  ◈現代劇映画「美しさと哀しみと」(監督・篠田正浩、1965年、松竹大船)、現代劇映画「制覇」(監督・中島貞夫、1982年、東映京都)では、任侠の夫(三船敏郎)と妻(岡田茉莉子)が散策する。
◆墓 背後の山に、安土・桃山時代-江戸時代の豪商・文化人・角倉素庵(1571-1632)の墓がある。
◆年間行事 春の彼岸法要(3月23日)、浄焚式(じょうぼんしき)(古くなった御札、塔婆、お守りなど焼べて供養する。)(6月24日)、千灯供養(西院の河原の石仏、石塔に多くの灯明があげられ、無縁仏を供養する。)(8月23日-24日)、秋の彼岸法要(9月25日)、お十夜法要(11月10日)、お火焚(おひたき)(土地の神に海や山の幸を供え、鎮守(守護)に感謝する。)(11月23日)。
 水子供養塔(毎月24日)。


*年間行事は中止、日時変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 『京都市の地名』、『京都・山城寺院神社大事典』、『京都大事典』、『京都の地名検証』、『昭和京都名所図会 4 洛西』、『京都の寺社505を歩く 下』、『京都・美のこころ』、『日本の名僧』、『鳥居』、『掘り出された京都』、『文学散歩 作家が歩いた京の道』、『シネマの京都をたどる』、『日本映画と京都』、『京都絵になる風景』、『稲荷信仰と宗教民俗』 、ウェブサイト「コトバンク」


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化野念仏寺 〒616-8436 京都市右京区嵯峨鳥居本化野町17  075-861-2221
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