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本圀寺 (本国寺) (京都市山科区) Honkoku-ji Temple |
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本圀寺(本国寺) | 本圀寺(本国寺) |
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![]() 山門(赤門・開運門) ![]() 山門 ![]() ![]() 仁王門(三解脱門) ![]() 仁王門扁額「正嫡付法」 ![]() 仁王門 ![]() 仁王門 ![]() 仁王門 ![]() ![]() 本師堂(立像釈迦堂) ![]() ![]() ![]() 大本堂(本堂) ![]() 本堂内陣、三賽尊 ![]() ![]() 弐天門 ![]() 勅使門 ![]() 一切経蔵(重文) ![]() 一切経蔵 ![]() ![]() 納骨堂 ![]() 旧鐘楼 ![]() 旧鐘楼、梵鐘 ![]() 旧鐘楼堂 ![]() 旧鐘楼堂 ![]() 旧鐘楼堂 ![]() ![]() 大客殿(旧書院) ![]() 方丈大奥 ![]() 旧書院 ![]() 寺務所・庫裡 ![]() 三五の鹿点回廊 ![]() 日蓮像 ![]() ![]() ![]() 九名さん ![]() 人形塚 ![]() 九頭龍銭洗弁財天 ![]() 九頭龍銭洗弁財天、お金をざるに入れ霊水で洗い、浄財袋に入れて持つと、財運に恵まれるという。 ![]() 清正公廟、清正宮 ![]() 清正公廟 ![]() 清正公廟 ![]() 清正公廟 ![]() 清正公廟 ![]() 清正公廟 ![]() ![]() 鐘楼 ![]() ![]() 九名大尊神 ![]() 九名皇諦尊女 ![]() ![]() ![]() 桜 ![]() 背後の山並み ![]() ![]() 琵琶湖疏水にかかる正嫡橋 ![]() 琵琶湖疏水 ![]() ![]() 琵琶湖疏水 ![]() 琵琶湖疏水 ![]() 【参照】本圀寺旧跡地(下京区柿本町、堀川五条) ![]() 【参照】本圀寺跡より出土した銅製六器(京都市考古資料館-京都市埋蔵文化財研究所蔵) ![]() 【参照】本圀寺跡より出土した墨描土器(京都市考古資料館-京都市埋蔵文化財研究所蔵) ![]() |
山科疏水を越え、坂の参道を登ると25000坪の広大な境内の本圀寺(ほんこく-じ)がある。かつて「本国(國)寺」と記した。勅願道場として栄え、「西の祖山(そざん)」「西の総本」ともいわれている。山号は大光山という。 日蓮宗の大本山(霊蹟寺院)。本尊は大曼荼羅。 洛中法華21ヶ本山。日蓮宗京都16本山の一つ。日蓮宗四大本山の一つ。本圀寺・求法院は日蓮宗京都六壇林の一つ。 ◆歴史年表 鎌倉時代、1253年、日蓮(1222-1282)が、鎌倉松葉ヶ谷(まつばがやつ)に法華堂(本勝寺)を建立したのを前身にする。(寺伝) 1261年、日蓮の伊豆法難により、寺は破却されている。 1263年、再興され、「大光無量山本国土妙寺」に改め、日蓮の布教伝道の根本道場になる。 1271年、再び破却された。日蓮は佐渡に配流された。 1307年、再建され、将軍家の祈願所になる。第96代・後醍醐天皇(在位:1318-1339)の勅願所になる。 鎌倉時代末期、右大臣・今出川兼季(菊亭兼季)の菩提所になる。 南北朝時代、1345年、4世・日静の時、北朝第2代・光明天皇の勅により、京都六条に永代寺領を贈られ鎌倉松葉ヶ谷・法華堂より移る。「本国(國)寺」と改称した。寺域は広大で、東西2町・南北6町(堀川小路西、六条坊門小路南、大宮大路東、七条大路北の12町とも)にわたる。御所の坤(裏鬼門)の方角に配置され、皇室鎮護の霊場になった。 足利尊氏(1305-1358)との俗縁により公武の外護を得た。 1381年頃、四条門流の妙顕寺とともに、京中で四条門流として日蓮宗を代表する寺になる。 1397年、日陣は上洛後、本国寺の日静(にちじょう)に師事する。 室町時代、1536年、旧7月22日-28日、南近江の守護六角氏らが、京都の法華宗二十一本山を焼討ちした天文法華の乱では、法華一揆の拠点寺になり最後まで奮戦した。だが、焼失し、堺・成就寺に避難する。 1542年、勅許により帰洛の許可が下り、再建に着手する。 1547年、京都六条に再建され、本尊遷座された。 1565年、徳川光圀が母の追善供養を行う。 1568年、織田信長の再上洛にともない、本国寺は室町幕府15代将軍・足利義昭の仮居所(六条御所)になる。 1569年、 室町幕府第15代将軍・足利義昭の仮の御所(六条御所)、仮幕府の置かれた本国寺を、三好三人衆が急襲した。明智光秀は防戦する。信長は岐阜より軍を率いて京都に戻り鎮圧する。(「本国寺の変(六条合戦)」)。変後、織田信長は二条御所(二条城)を築城し、部材の一部は移された。義昭は御所に移した。 室町時代末、寺の周囲に環濠が築かれ、寺内町が形成された。 安土・桃山時代、1582年、豊臣秀吉は上洛の際の宿所にあてる。市中掌握と山崎城の築城を急ぐ。この頃、日蓮宗六条門流の大本山だった。 1591年、本願寺造立のため、南二町の寺領を割譲される。 江戸時代初期、「本国寺」と記されていた。 江戸時代、徳川家、豊臣秀吉の姉・日秀尼(1534-1625)、加藤清正(1562-1611)らの庇護を受け伽藍を拡充した。 1633年、末寺269を数えた。(「京都本国寺末寺帳」) 1636年、入洛した朝鮮通信使の400人の随員の定宿地になる。 1643年、朝鮮通信使が定宿する。 1655年、朝鮮通信使が定宿した。 1656年、瑤林院の生母・清浄院が京都で逝去し、本圀寺の清正廟の隣に埋葬した。自らの逆修墓を建立する。 1682年、朝鮮通信使が定宿した。 1685年、 徳川光圀が篤く当寺に帰依外護したとして、「圀」の一字を下され、寺号を「本圀寺」に改めたという。 1711年、朝鮮通信使が定宿する。 1748年、朝鮮通信使が定宿した。 1788年、 天明の大火により経蔵などをわずかに残して焼失する。 1811年、朝鮮通信使が定宿した。 1863年、本圀寺事件が起きた。宿泊中の鳥取藩側用人・黒部権之介らが、河田景与ら因幡二十士に襲われ、暗殺された。 近代、1905年、2月、日露戦争(1904-1905)後にロシア軍捕虜の収容を行う。本圀寺が本所になる。(「京都日出新聞」)。後に伏見俘虜収容所に移された。 現代、1945年、太平洋戦争末期の五条通の強制疎開で塔頭などが減少した。 1960年、財政難により鎌倉移転の騒動になる。 1971年、旧地六条(下京区、西本願寺第2境内)より、境内の8割を売却し、現在地(山科区)に移転する。 1981年、復興した。 1994年、旧地で発掘調査が行われ、埋め戻された堀跡が見つかった。 ◆日蓮 鎌倉時代前期-中期の日蓮宗(法華宗)開祖・日蓮(にちれん、1222-1282)。男性。日蓮大菩薩、立正大師。安房国(千葉県)の漁師の子。1233年、12歳で天台系の安房の清澄山、道善房の弟子となり薬王丸と称した。1237年、16歳で出家、是聖房蓮長(ぜしょうぼうれんちょう)と名乗る。1239年、鎌倉の浄土宗蓮華寺、禅宗の寿福寺、京都、高野山、四天王寺、興福寺、1242年、比叡山に上り俊範法印につく。東塔・無動寺円頓房、1245年、横川香芳谷・華光(けこう)房(後の定光院)で12年間修行した。1245年、臨済禅の円爾と親交する。1248年、泉涌寺の道隆、園城寺の智証に学ぶ。奈良七大寺、高野山、四天王寺、1251年、東寺に遊学した。1252年、比叡山を下り、清澄寺に戻る。1253年、「南無妙法蓮華経」と題目を唱え、立教開宗し日蓮と名乗る。国は法華経のみにより護られるとし、天台仏教が密教化、浄土化したことを批判した。1257年、地頭・東条景信により清澄山を追われ、鎌倉・松葉谷の草庵に逃れる。1260年、鎌倉幕府の前執権・北条時頼に法華経を正宗とする『立正安国論』を建白する。浄土宗、禅宗などの他宗、政治批判とみなされ草庵を焼打ちされる。(松葉谷法難)。1261年、幕府に捕えられ伊豆に流される。(伊豆法難)。1263年、赦免され鎌倉に戻る。1264年、安房・小松原で地頭による襲撃を受け重傷を負う。(小松原法難)。1268年、執権北条時宗に『立正安国論』を上申する。1271年、再び幕府に捕えられ片瀬龍口で斬首されそうになり、後に佐渡に流された。(龍口法難)。1272年、『開目抄』、1273年、『観心本尊抄』を著す。1274年、赦免後、身延山に隠棲、久遠寺を開山する。以後は著述と後身の養成をする。1282年、経一丸(日像)に京都弘通の使命を託した。日蓮は常陸への療養の旅の途中、武蔵の池上で亡くなり、身延に葬られた。61歳。 日蓮は、念仏信仰を批判、他宗を邪宗とした。法華経を唯一の正法、絶対真理と説いた。本門の法華経が末法の人々を救うものとし、実践的な事の一念三千仏法と王法の一致、王仏冥合を説いた。4度の法難、相次ぐ迫害について、法華経弘通(ぐつう)の行者の証と説いた。 ◆日静 鎌倉時代後期-南北朝時代の日蓮宗の僧・日静(にちじょう、1298-1369)。男性。俗姓は上杉、諱は日乗、字は豊龍、号は妙竜院。駿河国(静岡県)の生まれ。父・上杉頼重、母・足利氏の娘。将軍・足利尊氏の叔父にあたるともいう。駿河国・本覚寺の治部公日位、鎌倉・本勝寺の摩訶一房日印に師事した。日印は死に臨み本勝寺を日陣に譲る。1328年、日印の没後、越後国・三条本成寺を継ぐ。1338年、日印弟子・日祐に招かれて上洛する。1345年、足利家の外護を受け本勝寺を六条に移し、本国寺(後の本圀寺)に改称し6世に就く。尊氏の帰依、公武の外護により寺運隆盛になる。1348年、北朝第2代・光明天皇より三位僧都に任命された。天皇から日蓮正嫡の綸旨を受ける。著『六条要文』。72歳。 日蓮宗の2大門流・六条門流の祖。弟子に日伝、日陣がいる。 墓は法華寺(東山区)にある。 ◆日陣 南北朝時代-室町時代前期の日蓮宗の僧・日陣(にちじん、1339-1419)。男性。俗姓は佐々木、通称は門一阿闍梨(あじゃり)、号は円光房。越後国(新潟県)の生まれ。1347年、越後国・長久山本成寺、代官日龍の下で得度した。1397年、京都に上洛後、本国寺の日静(にちじょう)に師事する。1369年、越後国・本成寺住持を継ぐ。北陸、東北、関東、東海に布教した。本国寺の法兄・日伝(六条門流)と対立する。日陣は本迹(ほんじゃく)勝劣を主張した。(本迹論争)。1406年、日陣は本山の本禅寺(四条堀川)を建立し、別派の法華宗陣門流(日陣流)の門祖(派祖)になる。晩年、本禅寺は弟子・日登(にっとう)に任せ、越後、北陸地方に布教(弘通)した。1419年、本成寺を弟子・日存(にちぞん)に譲り、布教のために旅立ち、以後不明になったという。著『本迹同異決』81歳。 本迹論争は、『法華経』の本門・迹門の一致・勝劣をめぐり、日陣は勝劣説、日伝は一致義を唱えて8年間論争し、結論はでなかった。 ◆加藤 清正 室町時代後期-江戸時代前期の武将・加藤 清正(かとう-きよまさ、1562-1611)。男性。幼名は虎、虎之助。尾張(愛知県)の生まれ。父・清忠の次男。豊臣秀吉と同郷の縁により9歳より秀吉の台所方に仕える。元服し加藤虎之助清正と名乗る。1580年、播磨国神東郡120石を給せられる。1581年、鳥取城攻め、備中国冠山城攻め、1582年、山崎の戦い、丹波亀山の戦いに勝利した。1583年、賤ヶ岳の戦いで七本槍の一人に数えられた。1585年、従五位下主計頭に叙せられる。亡き父のために大坂に本妙寺を建てた。1587年、九州征伐には後備、肥後宇土城番を勤める。1588年、肥後北半国領主を任じられ熊本城主になる。1592年-1593年、文禄の役に出兵する。李朝の2王子を捕縛し、兀良哈(オランカ)まで攻めた。講和派の石田三成らと対立した。1596年、一時蟄居を命じられ、徳川家康の後援で解除される。1597年-1598年、慶長の役に再出兵し、蔚山(ウルサン)城で苦戦した。1598年、肥後熊本城主25万石の大大名になる。1599年、清正・福島正則・黒田長政ら6人で大坂の三成邸を襲撃し、三成に伏見の徳川家康の屋敷に逃れられた。1600年、関ヶ原の戦いで小西行長らと確執し東軍に付く。行長の居城・宇土城、柳川・立花宗茂を攻めた。行長滅亡後、家康は清正を肥後54万石に倍増させた。没した母のため、本妙寺を熊本城下に移し、両親の菩提所にした。1603年、従四位下肥後守に叙任した。その後、江戸城、1610年、名古屋城の普請工事を行う。1611年、旧3月、二条城で淀殿を説得し、秀吉遺児・秀頼と徳川家康を会見させ、豊臣家の存続を念願した。その後、熊本に帰着後、病急死した。50歳。 本妙寺(熊本市)に葬られる。 日蓮宗の熱烈な信者で、大坂・本妙寺(後に熊本城下)、本圀寺に番神堂・経蔵、塔頭・勧持院の再建などを行う。キリシタンを弾圧した。治水、築城、築堤の名手として知られた。 ◆日秀尼 室町時代後期-江戸時代前期の日蓮宗尼僧・日秀尼(にっしゅうに、1533-1625)。女性。俗名は智(とも)、本名は智子、字は妙慧、道号は村雲、通称は村雲尼、院号は瑞龍院。尾張(愛知県)の生まれ。父・木下弥右衛門、母・天瑞院(大政所)、豊臣秀吉の姉。農民・弥助(後の武将・三好吉房、犬山城主)に嫁ぐ。1568年、秀次、1569年、秀勝、1579年、秀保を産んだ。1588年、秀保は羽柴秀長の養子に入れた。1590年、秀次の尾張転封後は犬山城に移る。1591年、秀吉が嫡子・鶴松を喪い、秀次・秀勝を養子に入れる。1592年、秀勝は文禄の役で病死(戦死とも)、1595年、秀次は秀吉に高野山で切腹させられる。夫は連座し讃岐に配流された。(秀次事件)。秀保も病死(十津川温泉で事故死とも)した。聚楽第を出て、嵯峨野に善正寺を建立し、秀次一族の菩提を弔う。秀次の首は庵の傍らに埋葬し供養した。1596年、本圀寺の16世・日禎(にちじょう)により得度する。村雲に瑞龍寺を建立した。1598年、第107代・後陽成天皇より瑞龍院の院号を受け、瑞龍院妙慧日秀と名乗る。天皇は寺領を寄進した。1612年、夫没後、1615年、大坂の陣で秀頼ら親族を失い、豊臣方の山口兵内の妻・お菊(孫娘)も処刑された。93歳。 瑞龍寺中興三大比丘尼の1人。墓は瑞龍寺(滋賀県)、本圀寺(山科区)、善正寺(左京区)に供養塔がある。 ◆瑤林院 安土・桃山時代-江戸時代前期の瑤林院(ようりんいん、1601-1666)。女性。名は八十姫(やそひめ)。肥後国(熊本県)の生まれ。父・加藤清正、母・清浄院(水野忠重の娘、徳川家康の養女)の第5子(次女)。1609年、父・清正と徳川家康の合意により婚約し、1617年、17歳で駿河駿府藩主・徳川頼宣に輿入れした。1619年、頼宣が紀州藩主になり、夫とともに紀州に入る。1633年、江戸の紀州藩邸に移る。1656年、生母・清浄院が京都で没し、本圀寺の清正廟隣に埋葬し、自らの逆修墓も建立した。66歳。 父母と同様に熱心な日蓮宗信者になり、江戸・池上本門寺を崇敬した。 墓は、要行寺(後に報恩寺)(和歌山市)にある。 ◆仏像・木像 ◈本堂に「釈迦如来像」、「多宝如来像」が安置されている。南北朝時代、1366年、一塔両尊本尊として造立された。願主は日静、仏師は、院派系統の仏師とみられる法眼定慶による。 日蓮は最期に、日朗に「三箇の霊宝」(立像釈尊、立正安国論、法難赦免状)を託した。立像は持仏とされ、伊豆海中より顕れたという。公家・近衛政家など多くの人々に信仰された。 ◈日蓮真筆の「鴛鴦ご本尊」は、鎌倉時代後期、1287年に日朗へ授与された曼荼羅御本尊であり、表装の布に鴛鴦(おしどり)の織紋(本圀寺金襴)がある。 ◈「日蓮大聖人像(生御影の御尊像)」は、日朗(1245 -1320)が彫刻したという。鎌倉時代後期、1282年、日蓮が池上での入滅に先立ち、自ら開眼したという。 ◈「勝利大黒天像」は、室町時代、諸宗との問答対決の際に、日印が懐中にしのばせていたという。執権・北条高時の命により、鎌倉時代後期、1318年-1319年に諸宗との問答対決が行われた。幕府は、日蓮門下の敗北と追放、宗門禁断を謀った。だが、日朗の弟子・摩訶一阿闍梨日印(1264-1329)は、これを論破し、勝利を得たことから、勝利大黒像と呼ばれるようになった。 ◈「人麿像(人麿塚)」は旧・柿本社に祀られていた。六条の本圀寺柿本町は、飛鳥時代、歌人・柿本人麿(660?-720?)の旧宅跡という。平安時代前期-中期の旧・柿本社を歌人・紀貫之(872?-945?) が勧請し、さらに平安時代後期の歌人・藤原俊成(1114-1204)が神殿を再興し、日静が法華勧請をなしたという。 ◈南北朝時代作とみられる「九名皐諦尊女立像」は、「女人守護、炎中出現のくみょう様」と呼ばれる。鬼子母神堂に鬼子母神十羅刹女像とともに安置されている。九名皇諦尊女は、法華経・陀羅尼品になる。 室町時代後期、1536年、天文法華の法難に際し、火中から姿を現し危難を救った守護神という。火と煙の中で体を捻じり出現した姿のまま祀ってあるという。平安時代前期、813年、当初は東寺内に建立された法華堂が前身という。お題目を唱える人を救うとされる。縁日は毎月8の日。 鎌倉時代中期、1251年、日蓮は東寺に遊学し、東密を修めた。その際に、法華堂道場に止宿し、別当・真広法印により学んだという。1281年、真広は身延山に日蓮を訪ね、その弟子になり、「本尊(若宮本尊、竹筒本尊)を授かった。その後、住坊を法華道場(法華寺)とした。日蓮を開山とし、自らは2世とした。その本尊はその後、当寺に遷された。 ◆石仏 「勢至菩薩」、「十一面観音像」は、江戸時代前期、1641年に造立された。像の背面に「樋口平太夫家次(花押)、作者但弥(花押)」と彫られている。五智山蓮華寺(右京区)、広沢池の十一面千手観音(右京区)と同じになる。 ◆建築 ◈「山門(赤門・開運門)」は、現代、1996年に移築再建された。安土・桃山時代、文禄・慶長の役(1592-1598)で、加藤清正が朝鮮侵略し出陣する際に、門を開いて出征した。凱旋までは開けることがなかったため、以後「開かずの門」と呼ばれた。 ◈「仁王門(三解脱門)」は、現代、2003年に建立された。扁額「正嫡付法」が掛かる。 ◈「経蔵」(重文)が建つ。室町時代中期、1464年、8代将軍・足利義政は、9世・日暁に天下静謐の祈祷を依頼し、その恩賞として一切経(朝鮮本)、経蔵を寄進した。室町時代後期、1536年の天文法難で罹災する。江戸時代前期、1607年、扇谷上杉家の太田資次が再建した。江戸時代後期、1788年の天明の大火を免れた唯一の建造物になる。現代、1976年に移転再建されている。 輪蔵式経蔵であり、内部に一切経を納めた582の引き出しのある、創建当初の八角形の輪蔵が保存されている。輪蔵を一回転させると一切経をすべて読んだのと同じ功徳があるという。彩色、装飾、壁面の羅漢、天人の画も残る。 3間4面(3間3間とも)、単層、屋根は宝形造、本瓦葺で、正面に一間の庇を葺きおろす。 ◈「本師堂(立像釈迦堂)」は、現代、1971年に建立された。10間4面。 ◈「大本堂(本堂)」は、現代、1973年に建立された。日朗、日印、日静、日伝が祀られている。13間4面。 ◈「清正公廟」は、安土・桃山時代-江戸時代初期にかけての武将・大名の加藤清正(1562-1611)が両親の遺骨、自身の肉歯、毛髪を石室に納め、生き墓「真生廟」として建立した。安土・桃山時代、1592年、清正は、文禄・慶長の役(1592-1598)の際に、16世・日禛より首題七字の旗を受けた。日禛は妙経一万部読誦会を修し、戦勝祈願をしたという。 ◈「大客殿(旧書院)」は、現代、1971年に移築再建された。 ◈「旧書院」は、現代、1971年-1976年に再建された。 ◈「鐘楼堂」は、現代、1996年に建立された。 ◈「九頭龍銭洗弁財天」は、現代、1996年に勧請された。 ◆文化財 ◈ 日蓮は最期に日朗に「三箇の霊宝」を託した。立像釈尊、日蓮真筆 の『立正安国論』、佐渡流罪からの赦免状である「法難赦免状」になる。 ◈ 「輪宝ご本尊の裏書」(1278)、観心本尊鈔(1269)、窪田統泰画「日蓮聖人註画讃」全5巻・32段(1536)などがある。 ◈ 「梵鐘」は、秀吉の姉の村雲瑞龍院寄進という。鐘名は「大光山本圀寺」という。徳川光圀の名の由来になったという。 ◆本国寺・本國寺・本圀寺 寺号には「本国寺」「本國寺」「本圀寺」がある。 当寺は、鎌倉時代中期、1253年に、鎌倉松葉ヶ谷に建てた法華堂に始まる。1345年、日静が寺を京都に移して、「本国(國)寺」に改めた。「本國寺」の「國」は「国」の旧仮名遣いになる。 江戸時代前期、1685年、徳川光圀が篤く当寺に帰依外護したとして、「国」の字を「圀」に改め、以来「本圀寺」にしたという。 ◆本国寺版 本国寺では、安土・桃山時代、寺版としての本国寺版『天台四教義集解』3巻(1595)、『法華玄義序』1帖(1595)を活字印行した。慶長年間(1596-1615)後半-寛永年間(1624-1644)初期、古活字版を印行した。 ◆六条門流 日蓮宗の2大門流は、妙顕寺の日像(1269-1342)に始まる「四条門流」、本国寺の日静(1298-1369)に始まる「六条門流」になる。5世・日伝(1342-1409)の時に最盛期を迎えた。 名僧として日重(1549-1623)、日乾(にっけん、1560-1635)、日遠(にちえん、1572-1642)などを輩出した。なお、近代まで日蓮宗布教院が常設されていた。 六条門流からは日陣(1339-1419)が分立し、日陣門流(法華宗陣門流)を形成した。 ◆天文法華の乱 室町時代、京都の町衆(土倉)を中心とする日蓮宗徒は法華一揆を起こし、百姓・地侍の一向一揆、土一揆に対抗した。日蓮宗徒の勢力拡大に対し、次第に山門(延暦寺)との対立が起こる。 室町時代後期、1532年、京都の日蓮宗徒は、山科本願寺を焼討ちし、その後も堺、石山本願寺を攻めて勢力拡大する。1536年、日蓮宗徒と延暦寺僧との宗論後、延暦寺は京都の日蓮宗弾圧を決定した。1536年旧7月22日-28日、天文法華の乱(てんぶん/てんもん-ほっけのらん)が起こる。延暦寺宗徒は、近江国守護・六角定頼、三井寺勢の支援を得て、京都の日蓮宗寺院21寺を襲撃破却した。戦乱は旧22日の松ヶ崎より始まり、旧28日まで本国寺は持ちこたえた。日蓮宗徒は敗北し、京都より放逐され堺に逃れた。 乱後、室町時代後期、1542年に洛中還住の勅許が下りるまで、日蓮宗は京都で禁教になった。 ◆本国寺の変 室町時代後期、1565年、永禄の変で、二条御所の3代将軍・足利義輝が、三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)らに襲撃される。義輝は討死し、御所は焼失した。その後、六条の本国寺を仮の御所(六条御所)とした。 1568年に足利義昭は、織田信長に擁立されて上洛し、居館として本国寺を使った。義昭は征夷大将軍に就く。 1569年、信長は岐阜に帰る。その不在を狙った三好三人衆、斉藤龍興らが本国寺を襲撃した。細川藤賢、明智光秀がこれに応戦、細川藤高、三好義継、池田勝正らが来援した。事件は、義昭側の勝利に終わる。信長は岐阜より、大雪の道を2日で本国寺に駆け入ったという。六条合戦ともいう。 ◆本圀寺事件 江戸時代末期、1863年、因幡鳥取藩の佐幕と尊攘派の内部対立により、本圀寺に宿泊していた鳥取藩側用人・黒部権之介ら4人が、知恩院塔頭・良正院に集まった若手の河田左久馬ら因幡二十士により襲われ、暗殺された。 1866年、河田ら4人は遺族により仇討されている。因幡二十士事件ともいう。 ◆朝鮮通信使 江戸時代前期-中期、1636年-1764年に、朝鮮通信使は7回に渡り、400人の随員が当寺に定宿にしていた。本圀寺の松陽院、本実以院、松林院、本鳥栖院、久成院などが利用された。 将軍名代として京都所司代が一行に挨拶し、饗宴を催した。 随員の一人、金仁謙『日東壮遊歌』(1764)によれば、当時は相輪を持つ五層楼門があり、よい趣の庭があったという。 ◆ロシア軍俘虜 近代、1904年-1905年の日露戦争後、本圀寺はロシア軍捕虜の収容を行い本所になる。将校55人、下士官、兵士54人が収容されていた。捕虜は、後に伏見俘虜収容所に移された。 ◆不思議 不思議の伝承がある。 「大黒天立像」は大黒堂にある。安土・桃山時代、天正年間(1573-1593)、老翁が寺に像を売りに来た。住持・日栖は、霊像のためすぐに得たいというと、翁は明日、お金を貰いにくるという。名を尋ねると紙筆を借り和歌を書き残した。「遥遥と北野の松の下住居 宿は葎(むぐら、雑草)のかげの菅原」。翁は菅原道真だった。/「出陣門」は、赤門をいう。加藤清正は、本尊参詣後、この門より朝鮮に出陣したという。以来、一般人は通さなかった。/「人麿社」は、平安時代の紀貫之(868頃-945)の勧請による。藤原俊成も参詣し、社を修復した。後に、堀川出水にあり流される。荒廃し、塚だけが残され、人麿塚(下京区柿本町)と呼ばれた。足利尊氏は、本国寺を鎌倉より移す際に、社を再興し和歌を詠じた。「行水の柳に淀む根をとえばいつか昔の人丸の塚」。/「太閤部屋」があったという。木下藤吉郎時代に吉祥院に住んだ頃、炊事をした部屋、隠れていた部屋ともいう。 「鳥帽子石」は、塔頭・真如院の庭にある。足利義昭が烏帽子をかけた石という。また、安土・桃山時代、1560年、義昭は本国寺に参詣し、鳥帽子石を気に入り、寺の宝物も持ち帰ろうとした。日乗は諫めたものの義昭は聞き入れず、日乗を寺より追った。石も3つに割る。その夜、山内の狐が集まり、義昭の頭に石を載せ、胸を押すなどした。義昭は耐えられず、日乗を赦し、宝物も返した。/「鶴井」は、塔頭・多門院にある。名水「鶴井」は織田有楽斎が茶の湯に用いた。本堂西には「亀井」(田面の清水)があり、合わせて「鶴亀井」と呼ばれた。なお、塔頭・持珠院に「松蔭井」、真如院に「真如水」があった。/「古井の尊像」とは、旧塔頭・瑞雲院にある。日蓮上人坐像が祀られている。室町時代、永禄年間(1558-1570)、日乗が大宮八条付近を通ると、法華経の読経が古井戸の水底より聞こえる。井戸に入り捜すと像があり、持ち帰り安置した。足利義昭和も信仰した。井戸には稲荷神が祀られ古井稲荷社と呼ばれた。 ◆墓 当寺で得度した室町時代後期-江戸時代前期の村雲尼(日秀、1534-1625)の墓がある。豊臣秀吉(羽柴秀吉)の姉になる。 ◆遺構 現代、1994年の旧地(下京区)東端での発掘調査により、16世紀前半に埋め戻された堀(南北34m、幅6m、深さ2m)、境内内部の南北の堀(幅2.5m)が見つかった。 旧地には、室町時代後期、1536年、比叡山衆徒、南近江の守護六角氏らによる京都の法華宗二十一本山を焼討ちした天文法華の乱に備えた構え跡の遺跡がある。本国寺城と呼ばれ、法華宗、足利義昭、羽柴秀吉により築城された。 ◆年間行事 年頭会(1月13日)、大荒行「星祭祈祷会」(2月24日)、春季彼岸施餓鬼法要(3月結岸)、立像釈尊降誕会(4月8日)、伊東法難会(え)(5月12日)、清正公大祭(6月24日)、盂蘭盆会施餓鬼法要(8月24日)、松葉ヶ谷法難会(8月27日)、秋季彼岸施餓鬼法要(9月結岸)、宗祖御会式(10月13日)、清正公大祭(11月24日)。 *年間行事は中止、日時変更の場合があります。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『京都・山城寺院神社大事典』、『京都古社寺辞典』、『京都大事典』、『朝鮮通信使と京都』、『秀吉の京をゆく』、『京都歴史案内』、『京都府の歴史散歩 中』、『京都戦国武将の寺をゆく』、『京都時代MAP 安土桃山編』、『京都の寺社505を歩く 下』、『京の怪談と七不思議』 、『山科事典』、『京都の歴史10 年表・事典』、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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