一音院〔本圀寺〕 (京都市下京区)  
Ichion-in Temple
一音院   
一音院   
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【参照】「柿本町」の町名
 一音院(いちおん-いん)は、本圀寺の旧地周辺に残る塔頭の一つになる。
 日蓮宗、本尊は久遠実成本師釈迦牟尼仏を安置する。
◆歴史年表 安土・桃山時代、1600年、旧8月、三好吉房は子・孫の菩提を弔うために、妻・日秀の支援も得て本圀寺に塔頭・一音院を建立した。
 江戸時代、1612年、旧8月25日、吉房は没し、本圀寺の妙恵会総墓所に葬られた。
 1788年、天明の大火で焼失する。その後、再建された。
◆三好 吉房 室町時代後期-江戸時代前期の武将・三好 吉房(みよし-よしふさ1534-1612)。詳細不明。通称は弥助、木下弥助、武蔵守、号は一路(一路常閑)、三位法印一路。尾張国(愛知県)の生まれともいう。馬貸・馬丁・百姓ともいう。木下藤吉郎(豊臣秀吉)の姉・とも(日秀尼)と結婚した。1564年、秀吉の馬牽として士分に取り立てられる。1568年、治兵衛(豊臣秀次)、1569年、小吉(秀勝)、1579年、辰千代(秀保)が生まれた。秀次が三好康長の養子になり、以後は三好姓を名乗る。1582年、秀吉は中国大返しで姫路に帰り、吉房にも留守居を命じた。1590年、尾張犬山城主になる。1591年、犬山城主を秀勝に譲り、尾張清洲城主になる。1593年、加増された。1595年、旧4月、秀保は病死した。旧7月、秀次が高野山で切腹になり、吉房は連座し所領没収・改易になる。四国の讃岐国に流され軟禁された。(豊臣秀次切腹事件)。1598年、秀吉の死後、赦免され京都に戻った。1600年、本圀寺に一音院を建立する。晩年、法華行者になり、下野国(栃木県)足利で没した。
 墓は本圀寺の妙恵会総墓所(下京区)にある。


年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献・資料 『京都戦国武将の寺をゆく』、ウェブサイト「コトバンク」


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map 一音院〔本圀寺〕 〒600-8357 京都市下京区柿本町683,岩上通五条上ル
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