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大悲閣(千光寺) (京都市西京区) Daihi-kaku (Senko-ji) Temple |
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大悲閣(千光寺) | 大悲閣(千光寺) |
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![]() 「大悲門道」の石碑 ![]() 大悲門道の石柱 ![]() 保津川(大堰川、桂川)河畔右岸にある松尾芭蕉の句碑「花の山 二町のぼれば 大悲閣」 ![]() 黒門 ![]() 参道 ![]() ![]() 大須賀乙字の句碑「嵐気動く奥は蝉声晴れてあり」 ![]() 参道 ![]() 参道途中の洗心亭 ![]() 門道の石段 ![]() 松尾芭蕉の句碑「六月や峰に雲おくあらし山 はせを翁」 ![]() ![]() ![]() 山門 ![]() 鐘楼 ![]() 鐘楼、梵鐘 ![]() 鐘楼 ![]() ![]() 旧客殿(大悲閣) ![]() 「大悲閣」の扁額 ![]() 新客殿(大悲閣) ![]() ![]() 新客殿(大悲閣)、算盤で作られた三重塔 ![]() 新客殿(大悲閣)、算盤で作られた三重塔 ![]() 新客殿(大悲閣)、「無量大数」の算盤 ![]() 新客殿(大悲閣) ![]() 新客殿(大悲閣)からの眺望、山向こうに京都市街地、眼下に保津川(大堰川、桂川)の流れが見える。 ![]() 新客殿(大悲閣)、保津川(大堰川、桂川) ![]() 新客殿(大悲閣)、比叡山 ![]() 新客殿(大悲閣) ![]() 「天然勝境」の扁額 ![]() 仏殿(仮本堂) ![]() 仏殿 ![]() 仏殿、本尊・千手観世音菩薩 ![]() 仏殿、弁財天像 ![]() 仏殿、了以等身坐像 ![]() 仏殿、了以等身坐像 ![]() 仏殿 ![]() 風雲軒 ![]() ![]() サクラ ![]() イロハモミジの大木 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 坐禅石 ![]() 「河道主事嵯峨吉田了以翁碑」 ![]() 対岸の亀山公園から見た千光寺の春 ![]() ![]() 境内南にある嵐山 ![]() ![]() 【参照】渡月小橋近く、保津川(大堰川、桂川)河畔右岸にある松瀬青々の句碑「鶯や日は上にあるあらし山」 ![]() 【参照】近くの保津川(大堰川、桂川)、千鳥ヶ淵付近 ![]() 【参照】 保津川(大堰川、桂川)河畔右岸にある戸無瀬(となせ)の滝 ![]() ![]() 保津川(大堰川、桂川)河畔右岸 ![]() ![]() 【参照】保津川(大堰川、桂川)河畔右岸、寺に至る小径 ![]() 【参照】保津川(大堰川、桂川)河畔右岸にある蔵王大権現 ![]() 蔵王大権現 ![]() 蔵王大権現 ![]() 蔵王大権現 |
千光寺(せんこう-じ)は、嵐山(382m)北麓、渡月橋の大堰川(保津川、桂川)上流の右岸(南岸)1.2kmにある。 千鳥ヶ淵より、急峻な九折の参道(門道、石段は約200段)を登った中腹に建つ。客殿の名称から院号は大悲閣(だいひかく)とも呼ばれている。その名は「菩薩の大きな慈悲」に因んでいる。「嵐山大悲閣(あらしやま-だいひかく)」、正しくは「大悲閣千光寺」と呼ばれている。山号は嵐山という。 黄檗(おおばく)宗単立の禅寺。本尊は千手観世音菩薩を安置する。 角倉了以ゆかりの寺であり、角倉家一族の一人である江戸時代初期の和算家・吉田光由に因み、算盤(そろばん)上達、数学・理学向上の寺としても知られている。 ◆歴史年表 鎌倉時代、千光寺は、第99代・後嵯峨天皇(1220-1272)の祈願寺だった。当初は、中院(右京区嵯峨釈迦堂前南中院町)にあり、大悲閣の前身になる。禅宗の鎌倉・建長寺に属した。その後、衰退する。 江戸時代、1614年、土倉(どそう)・角倉了以(すみのくら-りょうい)は、嵯峨釈迦堂西の千光寺の旧地を得る。その本尊・千手観世音像を念持仏にした。現在地(嵐山の別業の地)に移す。二尊院の僧・道空了椿(どうくう-りょうちん)を中興開山として建立した。寺号は、観音の「大慈大悲」より「大悲閣」と名付けた。当初は天台宗だった。了以はすでに病床にあった。大堰川開削犠牲者の菩提を弔うために、観音堂を建て移り住んだという。了以は同年、旧7月、没した。その後、衰微、荒廃する。 了以の子・角倉素庵(1571-1632)は、父の像を安置し、以後、角倉家の菩提所になる。 1808年、了以200年忌にあたり、子孫の角倉玄寧、黄檗僧・大顚(だいてん)により中興された。日野黄檗宗正明寺の末寺になる。(「角倉文書」)。京都の豪商・風間八左衛門により復興されたともいう。 江戸時代末期、再び衰微した。 近代、1868年、8代・角倉関岳が萬福寺末にした。境内、堂宇、寺領山林、什宝など多くを失い、荒廃した。大悲閣は残る。 1871年、9代・戒岳が再興した。 1887年、戒岳の時、開基家分家には廃寺の意図があった。思想家・岡倉天心(1863-1913)らが復興に協力し、その後も整備が続けられた。 1912年頃、角倉了以の300年忌に客殿(大悲閣)が新築された。 現代、1959年、9月、伊勢湾台風の被害により、本堂(観音堂)、大悲閣などが損傷する。その後、仮補修で凌いだ。 1978年、12月、本堂が解体される。その後、仏殿(仮本堂)が建てられ、本尊などが遷された。 2013年、1月-10月、客殿(大悲閣)の修復工事が終わる。 ◆角倉 了以 室町時代後期-江戸時代前期の海外貿易家・豪商・土木事業家・角倉 了以(すみのくら-りょうい、1554-1614)。男性。与七、諱は光好、法号は了以。京都嵯峨の生まれ。父・土豪(高利貸)・医者・吉田宗桂(そうけい)、母・中村氏の娘の長男。。父は勘合貿易により薬も扱った。了以は算数・地理を学び、角倉家5代として家業を引き継ぐ。1592年、豊臣秀吉から朱印状を与えられた。1604年以降、徳川氏から朱印状を与えられた。1603年-1613年、弟・宗恂、長男・与一(素庵)らの協力により、安南国(ベトナム)トンキン(東京)との御朱印船(角倉船、400人乗り、800t)貿易により富を得る。1606年、豊臣秀吉の命により、大堰川開削(丹波-山城)を行う。保津峡に船を渡し、亀岡と京都間の木材輸送を拓いた。安南貿易により得た火薬を工事に用いたという。通舟料を得て莫大な利益を得る。1608年、幕府の命により、富士川(駿河岩淵-甲府)疏通を完成させる。同年、天竜川(遠江掛塚-信濃諏訪)開疏は失敗した。1609年以降、貿易は子・与一に譲る。1610年、方広寺大仏殿造営の材木運搬のために、鴨川開削(水路化)を行う。1611年-1614年、高瀬川(京都二条-伏見)開削を行う。二尊院の道空に師事し仏道を極めた。晩年は、大悲閣(西京区)に隠棲し、開削川の通船の便益を念じたという。 薬物の輸入に尽力した。土木工事の技術に長けた。琵琶湖疏水(勢多-宇治)計画では、舟行、新田開発の腹案もあった。角倉家は河川通船支配権、倉庫料徴収での特許を得て有力材木商になる。京の三長者(ほかに、後藤四郎兵衛家、茶屋四郎次郎)の一人といわれた。61歳。 墓は二尊院(右京区)にある。 ◆角倉 素庵 安土・桃山時代-江戸時代前期の豪商・文化人・角倉 素庵(すみのくら-そあん、1571-1632)。男性。名は光昌、玄之(はるゆき)、字は子元、通称は与一、別号に貞順・三素庵。父・角倉了以、母・吉田栄可の娘の長男。父の朱印船貿易、河川開発事業を継承した。1588年、藤原惺窩より儒学を学ぶ。後に林羅山を知り、二人を引き合わせる。本阿弥光悦より書を習う。後に「寛永の三筆」の一人とされた。1599年、『史記』の刊行以降、1601年頃まで、光悦の協力を得て嵯峨本を刊行する。1603年から、父・了以の安南国東京(インドシナ半島)との朱印船貿易に関わり、日本国回易大使司を称し、角倉船を海外派遣した。父の大堰川、富士川、天竜川の開削、鴨川水道、高瀬川の運河工事を補佐した。1606年-1609年、甲斐、伊豆鉱山の巡視、1614年-1615年、大坂の陣で船便による物資運搬に貢献した。1615年、幕府より高瀬船、淀川過書船支配を命じられ、山城の代官職に就く。1627年、隠棲した。61歳。 歌、茶の湯、書は角倉流(嵯峨流)を創始した。近世の能書家の五人の一人。 墓は化野念仏寺(右京区)、二尊院(右京区)にもある。 ◆道空 了椿 江戸時代前期の浄土宗の僧・道空 了椿(どうくう-りょうちん、?-? )。詳細不明。男性。二尊院の僧。1614年、千光寺(大悲閣)を中興開山した。 ◆吉田 光由 安土・桃山時代-江戸時代前期の和算家・吉田 光由(よしだ-みつよし、1598-1672/ 1673)。男性。幼名は与七、通称は七兵衛、号久庵。京都の生まれ。角倉氏の一族であり、角倉了以は光由の外祖父にあたる。初め和算家・算盤の始祖・毛利重能に数学を学ぶ。角倉素庵から中国・明の算術書『算法統宗』を学ぶ。1627年、『塵劫記(じんこうき)』を著し、掛算割算の「九九(くく)」を庶民に初めて紹介した。算盤、比例算、検地算、ねずみ算、百五減算も解説し人気を博した。仕官はせず、熊本藩主・細川忠利に招かれた。1641年、忠利の没後、京都に戻る。晩年、失明し、素庵の子・玄通に養われる。門人に横川玄悦がいる。著『古暦便覧』など。75歳。 墓は二尊院(右京区)にある。 ◆大顚 江戸時代後期の黄檗宗の僧・大顚(だいてん、?-? )。詳細不明。男性。1808年、千光寺(大悲閣)を中興開山した。 ◆三柴 元 現代の実業家・三柴 元(みしば -げん、1944-2011)。男性。埼玉県の生まれ。1986年、コンピュータシステム開発サービス「ラック」(東京都)を創業した。客殿(大悲閣)の修復に際して寄進する。2011年、客殿の完成を待たずに亡くなる。67歳。 墓は二尊院(右京区)にある。 ◆北森 鴻 現代の小説家・推理作家・北森 鴻 (きたもり-こう、1961- 2010)。男性。本名は新道研治。山口県下関市の生まれ。宇部フロンティア大学付属香川高等学校、1984年、駒澤大学文学部歴史学科卒業後、小学館の編集プロダクションに勤務した。フリーライターを経て、1993年、作家になる。1995年『狂乱廿四孝』で鮎川哲也賞を受賞する。 1999年『花の下にて春死なむ』で第52回日本推理作家協会賞・短編・連作短編集部門を受賞した。2010年、山口市内の病院で病死した。代表作は推理小説シリーズ『蓮丈那智フィールドファイル』がある。48歳。 大悲閣(千光寺)を、短編集『支那そば館の謎』(2003)、『ぶぶ漬け伝説の謎』(2006)の舞台として登場させ支援した。 ◆仏像・木像 ◈仏殿(仮本堂)に、本尊の「千手観世音菩薩像」が安置されている。平安時代の恵心僧都(源信、942-1017)の作とされる。鎌倉時代、中院(右京区嵯峨釈迦堂前南中院町)にあった千光寺の旧本尊という。角倉了以の念持仏だった。 ◈仏殿(仮本堂)の左脇壇に、「弁財天像」が安置されている。 ◈仏殿(仮本堂)脇壇に、木像「了以像(了以等身坐像)」(73㎝)が安置されている。江戸時代に、了以の遺言により造られた。法衣姿で、手には自ら振ったという石割斧を握りしめている。木彫太縄の円座上に片膝を立てて座る。寄木造、玉眼入。 ◈「了椿像」がある。 ◆建築 黒門、山門、仏殿(仮本堂)、客殿(大悲閣、展望閣)、鐘楼、庫裡(風雲軒)、洗心亭などが建つ。 ◈「観音堂(本堂)」は、江戸時代前期、1614年に建てられた。現代、1959年の伊勢湾台風の被害により損傷する。その後、仮補修で凌いだ。1978年に解体された。 ◈「客殿(大悲閣、展望閣)」は、近代、1912年頃、角倉了以の300年忌に新築された。現代、1959年、伊勢湾台風の被害により損傷する。建物は歪みワイヤーで補強されていた。その後、仮補修で凌ぐ。2013年に大修復される。切り立った岩肌に建ち、舞台造(懸崖造)になる。 ◆保津川開削 かつて保津川は、急流の場所が多く、岩が迫る。川底に岩が当たり、舟も筏も通さなかった。 江戸時代前期、1606年、角倉了以による保津川開削では、川中の大岩は浮櫓を組み、大鉄槌(長さ3尺、周り3尺、柄の長さ2丈)を人力で引き上げ、これを岩に落として砕いた。水面上に出ている岩は、岩上で火を焚き、岩を脆くさせてから破壊した。大石に大綱をかけて引き倒し、火薬で爆破した。火薬は安南貿易により入手したという。大岩は、綱で陸に引き上げた。川幅が広く、水深が浅い場所では、川幅を狭めることで水深を確保した。瀑では上流部の川底を掘り下げ、下流との落差をなくした。了以は自らも石割斧で岩を砕いたという。工事はわずか6カ月で完成する。 航行する舟は、備前の吉井川で見た舷が高く、舟底が平らな舟(高瀬舟)を参考にした。保津川の開削により、丹波町与木村より淀、大坂までの水運が通じた。以後、園部、保津、山本、嵐山、梅津、桂津などは湊町として栄え、丹波材や農産物の物流が盛んになる。 ◆文化財 ◈保津川開削に関する史資料が残されている。 ◈新客殿(大悲閣)に、算盤の玉で作られた三重塔が安置されている。現代、2013年に「京都吉田光由悠久会」会員・久下五十鈴により寄進された。すべて、1万玉の算盤玉により作られている。高さ1.1m。 算盤は「無量大数(255桁)」あり、長さは3.5mになる。いずれも伝統工芸士・大橋中行の作による。 ◆碑・石造物 ◈参道登り口に 「何人治水功如禹古碣髙鐫了以翁」(左)、「千尺懸崖搆梵宮下臨無地一谿通」(右)の2本の石柱が立てられている。 ◈境内に顕彰碑「河道主事(かどうしゅじ)嵯峨吉田了以翁碑」が立つ。了以の子で儒学者であり、高瀬川開削にも当たった素庵(1571-1632)が建立した、江戸時代前期の儒者・朱子学者・林羅山(1583-1657)の撰文による。 現代、1978年の本堂解体に際して、左上部が欠損した。2002年に修復され、寺域中央に移された。2003年に覆屋が完成している。 ◈庭の一角に「夢窓国師の坐禅石」といわれる石が置かれている。嵐山の山頂より移されたという。 ◈詩碑「雨後嵐山」は、現代、2022年4月に日中国交正常化50年を記念して立てられた。中国の元首相・周恩来(1898-1976)は、近代、1917年-1919年に日本に留学し、1919年春に嵐山を訪れて詩を詠んだ。 千光寺から眺めた情景が描写されているという。青山が広がり、暗い都市に仄かに十数の電光が差しているの意味になる。 なお、嵐山公園内には、1979年に立てられた周恩来「雨中嵐山」がある。 ◆芭蕉句碑 保津川(大堰川)河畔右岸、参道途中に江戸時代の俳人・松尾芭蕉、関連した句碑4つが立てられている。 ◈参道入口に、松尾芭蕉(1644-1694)の小さな句碑が立つ。「花の山 二町のぼれば 大悲閣」、右下に「はせを」と刻まれている。この「はせお」は、「芭(は)」、「蕉(せお)」であり、古い字音表記になる。「芭蕉」は、「ばしょう」ではなく「はせお」と発音された可能性がある。 芭蕉は、江戸時代前期、1694年閏5月下旬-6月中旬に嵯峨・落柿舎(右京区)に滞在した。ただ、芭蕉句集にこの句は載っていないという。 句碑は近代、1878年に角倉関岳、俳人同志らにより立てられた。尊攘運動家・官僚・詩人・山中献(やまなか-けん、1822-1885)筆による。山中は、信天翁(しんてんおう、対嵐山房)と号した。高さ1.4m、幅27㎝。 ◈渡月小橋近くに「鶯や日は上にあるあらし山」の俳人・松瀬青々(まつせ-せいせい、1869-1937)の句碑が立つ。青々は芭蕉に傾倒した。門下により、現代、1953年に立てられている。高さ1.2m、幅77㎝。 ◈参道途中、九折の角に「嵐気動く奥は 蝉声(せんせい)晴れてあり」、右下に「嵐山にて乙字」の句碑が立つ。近代の俳人・大須賀乙字(おおすが-おつじ、1881-1920)の句になる。近代、1932年の乙字13回忌に 俳誌『懸葵(かけあおい)』の「懸葵発行所」により立てられた。高さ1.6m、幅77㎝。 ◈参道途中、山門近くに松尾芭蕉の「六月や 峰に雲おく あらし山」、右下に「はせを翁」の句碑がある。近代、1916年に枯魚堂(こぎょどう)5世・山口嵐更(?-? )、後援者として京都博遊社、全国の俳人などにより立てられた。高さ1.7m、幅76㎝。 ◆文学 ◈ 近代の小説家・夏目漱石(1867- 1916)の長編小説『門(もん)』(1910)に記されている。 ◈ 近現代の小説家・谷崎潤一郎(1886- 1965)の『細雪』(1943-1948)に、幸子たちが去年、大悲閣で折詰弁当を開いたとある。 ◈現代の推理作家・北森鴻(きたもり-こう、1961-2010)の「裏(マイナー)京都ミステリー 」中の短編集『支那そば館の謎』(2003)、『ぶぶ漬け伝説の謎』(2006)の舞台になっている。「貧乏寺」の大悲閣千光寺住職は、寺に盗みに入った怪盗・有馬次郎(アルマジロ)を許し、寺男として置く。次郎はその経歴を生かして様々な謎を解決していく。 ◆千鳥ヶ淵 保津川(大堰川、桂川)に「千鳥ヶ淵(ちどりがふち)」と呼ばれる淵がある。滝口入道時頼と横笛の悲恋で知られている。 美貌の横笛は、建礼門院の雑仕であり、この付近で入水したという。 ◆戸無瀬の滝 「戸無瀬(となせ)の滝」は、渡月橋の上流右岸にある。嵐山から大堰川に注ぐ。かつての天龍寺蔵王権現堂の背後に位置する。滝は三段になっており、「三段岩の滝」とも呼ばれた。一段は高さ27m、幅90㎝あったともいう。日照りが続くと流れは細った。大堰川の激流を表現したともいう。(『嵯峨誌』) 平安時代には和歌に詠まれた。鎌倉時代中期、歌人・藤原為家(1198-1275)が「雲かかる山の高根の夕立に戸無瀬の瀧の音まさるなり」と詠んだ。 室町時代前期、臨済僧・夢窓疎石(1275-1351)は、「天龍寺十境」の一つに選んだ。三段になって流れ落ちており、「三級巌」と名付けた。 その様は江戸時代の『都名所図会』巻4、『都林泉名勝図会』巻5、「広重六十余州名所図会」にも描かれている。「戸難瀬」「戸灘瀬」とも書かれた。 角倉了以の保津川開削により、多くが削られたという。上流に滝の一部は残るという。 ◆鳥居 大悲閣に至る道筋に祀られている嵐山、蔵王大権現の鳥居は、「宗忠鳥居」と呼ばれる型式になる。近代、1923年以前の建立による。石造。 ◆嵐山城 境内背後の山の頂に、かつて嵐山城があった。連郭式の山城であり、曲輪、石積、土塁、竪堀、堀切などが残る。 室町時代後期、永正年間(1504-1521)、足利管領・細川政元の家臣・香西又六(元長、?-1507)により築かれた。1507年、又六は、細川家の家督争いに際して、政元を暗殺した。澄之を政元の養子とし、管領職を継がせようとした。これに反して、政元の養子・細川澄元の軍が入洛する。香西軍は城を出て、両軍は百々橋で戦う。香西軍は敗れ、又六は討死、澄之は城に火を放ち自害したという。 ◆年間行事 了以忌・川施餓鬼(9月22日)、除夜の鐘(12月31日)。 *年間行事・は中止・日時・内容変更の場合があります。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 当寺案内書「大悲閣」、「京都市 駒札」、『京都・山城寺院神社大事典』、『京都古社寺辞典』、『洛西歴史探訪』、『京都府の歴史散歩 上』、『続・京都史跡事典』、『昭和京都名所図会 4 洛西』、『京都の寺社505を歩く 下』、『京都大事典』、『鳥居』 、『京都・湖南の芭蕉』、ウェブサイト「大悲閣千光寺」、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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