「元和(げんな)キリシタン殉教の地」の碑 (京都市東山区)
Place of Great Genna Martyrdom
「元和キリシタン殉教の地」の碑 「元和キリシタン殉教の地」の碑 
50音索引,Japanese alphabetical order  Home 50音索引,Japanese alphabetical order  Home

「元和キリシタン殉教の地」、正面橋東詰、川端通の西側に鞍馬石の碑が立てられている。




正面橋


かつての六条河原辺り、正面橋


【参照】下京区菊屋町付近、かつてだいうす町があり、キリシタン信者が住んでいた。
 鴨川に架かる正面橋の東詰南、川端通に面して「元和キリシタン殉教の地(げんなきりしたん-じゅんきょうの-ち)」の碑が立つ。 
 江戸時代前期、1619年旧10月6日、京都のキリシタン52人は、この地で27本の十字架に掛けられ火刑になった
◆歴史年表 江戸時代、1613年、徳川幕府2代将軍・徳川秀忠は、2度目の「キリシタン禁令」を布告した。
 1618年、当初、京都所司代・板倉勝重は、捕えていたキリシタン牢内の信者を、比較的自由にさせ、その釈放も考えていたという。だが、秀忠はそのことを聞き知り、すでに釈放した者まで含めて、すべての信者の処刑を命じその方法まで指示した。
 1619年、京都が大弾圧の地になる。下京区菊屋町(だいうす町(丁)、ゼウス、デウスの意)には、多くの信者が住んでいた。役人は彼らに棄教を言い渡す。マルタと呼ばれる7歳の少女は、信仰を棄てないと叫んだという。63人の信者が捕らえられ、小川通牢屋敷に投獄される。そのうちの8人は、劣悪な牢内環境のために獄死している。
 1619年、旧10月6日、52人の信者は9台の荷車に乗せられ、市中引き回しの刑を受けた。その後、方広寺と鴨川の間付近(六条河原西岸)で、27本の十字架にかけられる。1本の十字架に複数の信者が括り付けられた。十字架は方広寺の大仏と対峙する形になっており、十字架の周りには薪が高く積み上げられていた。河原の刑場には、入洛した秀忠をはじめ、全国の家臣、都人ら見物人も大勢集まっていた。
 京都の古くからの信者である橋本太兵衛ジョアン、その身重の妻テクラと5人の子どもも火あぶりの犠牲になる。ジョアンは十字架に縛られた。テクラは子どもたちと別の十字架に架けられた。テクラは3歳の幼い男の子・ルチアを腕に抱き、右手には12歳の息子・トマスが吊るされていたという。8歳の息子・フランシスコは左に縛られた。13歳の娘・カタリナ、6歳の息子・ペトロも括られていた。父と母は、子どもたちを最期の時まで励まし続けたと伝えられている。夕刻、火が付けられた。激しい炎の中に子の顔をさすり、涙を拭いてやる親の姿が見えたという。子どもたちは「ゼウス、マリア」と叫んだという。テクラは、最期まで息子のルチアをしっかりと腕に抱いていたため、遺骸の2人を引き離すことができなかったという。2歳から13歳までの子どもの犠牲者は11人(10人とも)にのぼる。胎児も含めて53人の殉教者説もある。
 1619年、旧10月6日日、伏見奉行は、捕えていたキリシタン・イグナチオ七右衛門を火刑に処している。
 現代、1994年、現在地に「元和キリシタン殉教の地」の碑に立てられた。
 2007年、ローマ法王庁は、日本の殉教者188人に「福者」(ふくしゃ、聖人に次ぐ地位で徳と聖性が認められた人)の称号を与えた。このなかに、京都の殉教者の名も初めて加えられた。
 2008年、11月24日、ローマ法王庁の「列福式」が、日本で初めて長崎県の県営野球場で催され、信徒ら3万人が集った。列福の儀で、東京、新潟、京都などの殉教者ゆかりの9各教区司教が、188人の略歴をそれぞれ紹介した。この日、日本人殉教者は正式に福者の列に加えられている。
◆橋本太兵衛ジョアン 安土・桃山時代-江戸時代前期のキリシタン武士・橋本太兵衛ジョアン(?-1619)。如庵、桔梗屋。父はウィレラ神父により洗礼を受けた。少年時代にポルトガル語を学ぶ。織田信長の孫・秀信に仕えた。信者の娘・テクラと結婚し、6人の子どもを授かる。江戸時代前期、1619年、一家で朝の祈りをしている最中に捕縛され、小川通座敷牢に投獄された。座敷牢で棄教を強いられるが拒否、家族6人(長男以外)とともに火炙り刑に処せられた。元和キリシタン殉教の中心的な人物になる。
◆イグナチオ七右衛門 安土・桃山時代-江戸時代前期のキリシタン・イグナチオ七右衛門(? -1619)。詳細不明。近江(滋賀県)の生まれ。信仰上の理由により祭りに参加せず、住民に排斥された。京都より伏見に移る。1619年旧1月、伏見奉行に捕われる。棄教に応じず、旧10月6日、伏見で火刑に処せられた。30歳位。
◆三大殉教 近世以降のキリシタン弾圧史のなかで「日本の三大殉教」としては、55人の信者が犠牲になった「長崎の大殉教」(1622年)、51人が犠牲になった「江戸の大殉教」(1623年)、そしてこの「京都の大殉教」(京都大殉教、元和キリシタン殉教)が挙げられる。
 これらに先立ち、京都の信者が犠牲になった「日本二十六聖人殉教」(1597年)がある。また、1614年、京都で日本初のベアタス修道女会(1603年)を創設したジュリア内藤ら148人の信者が、マニラ、マカオ、津軽などに追放されている。1614年、二条河原では残された修道女ら15人が、裸か薄い衣をまとっただけで藁に簀巻きにされ、拷問を受けた後、処刑されている。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 『京のキリシタン史跡を巡る 風は都から』、『京都の監獄史』、『伏見学ことはじめ』



正面橋  方広寺  耳塚  二条大橋  五条大橋  七条大橋  渉成苑  南蛮寺の礎石  「二十六聖人発祥の地」の碑  六角獄舎  一条戻橋  だいうすの辻子・ダイウス町  小川通座敷牢  関連信仰の小道・高山右近・イエズス会伏見教会  鴨川散策  京都歴史災害年表    50音索引,Japanese alphabetical order 
正面橋付近  京都市東山区鍵屋町周辺 
50音索引,Japanese alphabetical order  Home   50音索引,Japanese alphabetical order  Home  
  ©2006- Kyotofukoh,京都風光