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安井金比羅宮 (安井神社)・蓮華光院 (京都市東山区) Yasui-konpira-gu Shrine |
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安井金比羅宮 | 安井金比羅宮 |
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![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 石鳥居の柱は円柱ではなく角柱。 ![]() 「安井金比羅宮」の社号標 ![]() 狛犬、砂岩。 ![]() ![]() ![]() ![]() 参道、絵馬の道 ![]() ![]() 「絵馬の道」の石碑 ![]() 手水舎、鞍馬石 ![]() 落語家・桂米朝が呼び掛けて集まったという芸能人の絵馬 ![]() ![]() 金毘羅会館 ![]() 縁切り縁結びの碑(いし) ![]() 縁切り縁結びの碑(いし) ![]() 願い事を書く形代 ![]() ![]() 縁切り縁結びの碑(いし)、「断」とあり、縁切りは表から穴を潜る。 ![]() 縁切り縁結びの碑(いし)、「協」とあり、縁結びは「うら」から穴を潜る。 ![]() 土蔵 ![]() 土蔵 ![]() 土蔵 ![]() 獅子、凝灰岩。 ![]() 土蔵、狛犬 ![]() 第62代・村上天皇「安井の藤」の歌碑 ![]() 金比羅絵馬館、小絵馬 ![]() 金比羅絵馬館、外に掛けられている大絵馬 ![]() ![]() 拝殿 ![]() 拝殿 ![]() 本殿 ![]() ![]() 厳嶋神社 ![]() 厳嶋神社の覆屋内、祭神は不明 ![]() ![]() 厳嶋神社 ![]() 厳嶋神社 ![]() 厳嶋神社 ![]() 厳嶋神社 ![]() 末社、天満宮、祭神は菅原道真 ![]() 天満宮 ![]() 天満宮、狛犬 ![]() 天満宮、道真の絵馬 ![]() 久志塚 ![]() 久志塚(櫛塚) ![]() 久志塚、「吉川観方小直衣之像」 ![]() 久志塚 ![]() 八木力社、八大力尊 ![]() 八木力社 ![]() 金毘羅大権現 ![]() 金毘羅大権現 ![]() 金毘羅大権現 ![]() 櫛祭 ![]() |
安井金比羅宮(やすい-こんぴら-ぐう)は、「金毘羅宮」、「安井神社」、「崇徳(すとく)天皇社」、「崇徳天王社」、「藤寺」、「安井の金毘羅さん」とも呼ばれた。悪縁を切り良縁を結ぶ祈願所として知られている。祇園、宮川町など花街関係者も参拝した。 祭神は、第75代・崇徳天皇(すとくてんのう)、大物主神(おおものぬしのかみ)、源頼政(みなもとの-よりまさ)を祀る。 崇徳天皇が亡くなる6年前、あらゆることを断ち国家安泰を祈願したとされ、断ちもの祈願、悪縁断ち、悪縁切り、浮気防止、縁結び良縁祈願、商売繁盛、金運、開運、交通安全、航海安全、美願などの信仰がある。 ◆歴史年表 年代不詳、この地、下河原(東山安井)には、崇徳院御影堂があった。 鎌倉時代初期、1200年、第77代・後白河天皇皇女・殷富門院亮子(いんぷもんいんりょうし)内親王は、安井御所(右京区太秦)内に御堂を建て、真言宗の蓮華光院とした。開基は以仁王(もちひとおう)の遺児・道尊僧正による。 1268年/建治年間(1275-1277)、大円は観勝寺内に光明院を再興した。大円は源頼政の末裔であり勧請したという。 第83代・土御門天皇皇子の道円法親王(1224-1281)が入寺し、以後、法親王門跡になり安井門跡といわれた。 その後、衰微する。 江戸時代、正保年間(1644-1648)、性演が再興している。 1695年、太秦安井の蓮華光院が現在地へ移される。讃岐金刀比羅宮を模した社殿に、安井門跡・道恕が讃岐国象頭山金比羅大権現の祭神・大物主神を勧請し、蓮華光院の鎮守社とした。御影堂に祀られていた崇徳天皇は配祀、源三位を合祀される。 近代、1873年、蓮華王院は大覚寺山内(右京区)に移される。その後、院は廃絶した。現在地には安井小学校が建てられる。金刀比羅宮は残され、安井神社と称した。崇徳天皇御廟より崇徳天皇の霊が遷され合祀された。 現代、1945年、太平洋戦争後、安井金比羅宮と改称している。 1966年より、落語家・3代目・桂米朝による落語会が催される。 1976年、金比羅絵馬館が開館する。 1978年、縁切り縁結びの碑(いし)が設置された。 ◆源 頼政 平安時代後期の武将・源 頼政(みなもとの-よりまさ、1104-1180)。男性。通称は源三位(げんさんみ)入道、法名は真蓮、頼円。父・源仲正の長男。後白河法皇(第77代)をめぐって藤原通憲(信西)・平清盛と藤原信頼・源義朝とが対立した1159年、平治の乱では、平清盛方につき、平家政権下唯一の源氏になった。1180年、平氏追討のため以仁(もちひと)王をたてて挙兵したが敗れ、三井寺の僧兵とともに落ち延びる途中、平知盛、重盛の軍に追われ、平等院境内「扇の芝」で自刃した。77歳。 鵺(ぬえ)退治の伝説、歌人としても知られる。 ◆崇徳 天皇 平安時代後期の第75代・崇徳 天皇(すとく-てんのう、1119-1164)。男性。名は顕仁(あきひと) 、別名は讃岐院。京都の生まれ。父・第74代・鳥羽天皇、母・待賢門院藤原璋子(藤原公実の娘、白河院養女)の第1皇子。白河法皇(第72代)が璋子に産ませた子ともいう。鳥羽天皇は崇徳天皇を「叔父子(おじご)」と呼んだという。第77代・後白河天皇の兄。1123年、院政をしく曾祖父・白河法皇の意により、5歳で皇位を継承する。父・鳥羽上皇が院政を行う。1129年、白河法皇没後も鳥羽上皇の院政が続く。1140年、源雅定左大将着任をめぐり鳥羽上皇と対立した。1141年、鳥羽上皇に迫られ、3歳の異母弟・体仁(なりひと)親王(第76代・近衛天皇、美福門院得子の所生)が皇位継承する。以後、「新院」と呼ばれ、政令を出す「本院(鳥羽上皇)」との対立激化した。1155年、近衛天皇が急逝後、崇徳上皇は子・重仁(しげひと)親王の即位を望む。だが、異母弟・雅仁(まさひと)親王(第77代・後白河天皇、璋子の所生)が即位し、その子・守仁(もりひと)親王(後の第78代・二条天皇)が立太子となる。1156年、鳥羽法皇没後、崇徳上皇は、左大臣・藤原頼長、源為義、平忠正らと挙兵する。(保元の乱)。この平安時代初の乱に敗れ、讃岐国に配流され、その地で没した。46歳。 日本三大怨霊(ほかに菅原道真、平将門)の一人、天皇初の怨霊(讃岐院怨霊)として恐れられた。和歌に秀で『詞花和歌集』の編纂を命じた。陵墓は火葬所の山陵が白峰陵(しらみねのみささぎ)(香川県坂出市)にされた。没後、1177年、崇徳院の諡号(しごう)を贈られる。1184年、保元の乱の戦場跡、春日河原には粟田宮(左京区聖護院)が建立される。崇徳天皇が流された讃岐の御陵にも、鎌倉時代に御影堂が建立された。堂は白峰寺が管理し、白峰宮と呼ばれる。1868年、京都に白峰宮(白峯神宮、上京区)が建立された。 ◆殷富 門院 平安時代後期-鎌倉時代前期の皇族・殷富 門院(いんぷ-もんいん、1147-1216)。女性。亮子(りょうし)内親王、法名は真如観。京都の生まれ。父・第77代・後白河天皇、母・藤原季成の娘・成子(せいし、高倉三位局)の第1皇女。同母兄弟に以仁王(もちひと)・守覚法親王・式子内親王。1156年、内親王宣下(せんげ)、即日、伊勢斎宮になる。1157年、斎宮を退下した。1180年、以仁王の邸にいたという。1182年、第81代・安徳天皇の准母として皇后と呼ばれる。のち第82代・後鳥羽天皇の准母になる。1187年、院号宣下、殷富門院と称した。1192年、後白河法皇より、金剛勝院・押小路殿を伝領した。法皇の没後、仁和寺法金剛院で出家し、真如観と称した。仁和寺東南の安井殿に住む。1200年、御願寺として御堂を建て蓮華光院と号した。70歳。 安井門跡(蓮華光院)の祖。猶子に、道尊、仁和寺僧・良恵(九条兼実の子)、長仁親王(後鳥羽院第2皇子、仁和寺御室道助入道親王)、東宮守成親王(第84代・順徳天皇)がいる。鎌倉時代初期の女院御所は文芸の場になる。蓮華光院法華堂に葬られた。 ◆道尊 平安時代後期-鎌倉時代前期の皇族・僧侶・道尊(どうそん、1175-1228)。男性。号は安井宮御室。父・以仁王(第77代・後白河天皇第3皇子)の第2王子。1180年、父の挙兵に際し平家に捕らえられ、仁和寺で出家させられる。殷富門院は蓮華光院に引き取り養育した。1193年、一身亜闍梨に補され、1204年、法印、権僧正に任じられる。1206年、東大寺別当、1207年、東寺長者、仁和寺別当。1209年、僧正、1221年、大僧正に昇進した。53歳。 土御門、順徳、後堀河天皇の護持僧を務めた。 ◆道円 法親王 鎌倉時代前期-中期の皇族・道円 法親王(どうえん-ほうしんのう、1224/1210-1281/1240)。詳細不明。男性。西院宮、安井宮。父・第83代・土御門天皇の皇子。真言宗の僧。1231年、道助入道親王より灌頂を受ける。仁和寺の蓮華光院、西院に住し、西院宮、安井宮と称された。58歳/31歳。 ◆良胤 鎌倉時代前期-後期の僧・良胤(りょういん、1213-1291)。詳細不明。男性。字は大円、通称は岩倉上人。丹後(京都府)の生まれ。実賢(じつげん)に真言密教の三宝院流、金剛王院流を受ける。1268年、岩倉・観勝寺の住持となり、中興の祖となる。亀山上皇(第90代)に灌頂を授けた。80歳。 ◆道恕 江戸時代中期の僧・道恕(どうじょ、1668-1733)。詳細不明。男性。号は法界心印。父・久我広道、鷹司房輔の猶子になる。真言宗。仁和寺蓮華光院で出家、法印大僧都、安井門跡になる。1692年、大僧正、1718年、東寺長者。66歳。 ◆吉川 観方 近現代の画家・有職故実研究家・吉川 観方(よしかわ-かんぽう、1894-1979)。男性。賢次郎。京都の生まれ。1900年、岡阪鉄山に書を習う。1901年 、四条派の西堀刀水に日本画を習った。1907年、藤原重浪に和歌の添削を受けた。上代様仮名を独習する。1909年、浮世絵の研究を始める。1913年、京都府立第一中学校を卒業し、役者似顔の小版画を出す。1914年、京都市立絵画専門学校予科に入学した。1916年、京都初の木版役者絵を刊行した。1917年、第11回文展に「舞台のかげ」で入選する。1918年、絵画専門学校本科卒業した。松竹合名社に入社し舞台意匠顧問になり、時代考証など手掛けた。第12回文展に「花は散る日は暮るゝ」を出品する。1920年、絵画専門学校研究科を卒業する。1922年、関西初の浮世絵「雲母摺大錦版舞妓大首図」・「役者大首図」を刊行した。1923年、故実研究会を創立し、「観方創作版画集」を刊行する。1924年、泰東書道第1回展に入選し受賞される。1925年、三木翠山と創作版画展を開催した。1943年、この頃から、京都の今井氏と親交し多くの作品を描く。1945年、日本美術工芸交驩協会発会に参加した。1947年頃、身延山の日蓮宗管長の肖像画を描く。1948年頃、大分市の一丸氏の依頼で大作に取り組む。1950年り、故実・風俗研究、資料蒐集を進めた。1954年、春日大社の画所預になる。1966年、京都新聞社から文化賞を受けた。1968年、京都市から第1回文化功労者賞、金杯を受ける。1973年、収集品を寄贈し、奈良県立美術館(吉川コレクション)が開館した。84歳。 風俗研究・風俗資料蒐集を積極的に行い、全国各地で風俗資料展を開催した。江戸時代の公家・武家・町方の資料3万点を蒐集した。日本画、役者色摺版画、浮世絵・風俗画、妖怪・幽霊画、染織・小袖などの衣裳、装身具、武具、工芸品、調度、祭礼などにも及ぶ。現在、資料は、京都府立総合資料館、奈良県立美術館(吉川コレクション)、福岡市博物館に収蔵されている。 ◆桂 米朝 近現代の落語家・3代目・桂 米朝(かつら-べいちょう、1925-2015)。男性。本名は中川清。旧満州(中国大連)の生まれ。1930年、一家で帰国後、兵庫県姫路市で暮らした。幼少期に父に連れられ大阪の寄席演芸に親しむ。1943年、大東文化学院(現・大東文化大学)に進学(後に中退)する。寄席文化研究家・正岡容(いるる)に師事し落語評論を志す。1945年、終戦後、会社員として働き新作落語を書いた。1947年、4代目・桂米団治に弟子入りし、3代目・桂米朝を名乗る。1958年、結婚する。1966年、京都で初の独演会「桂米朝スポットショー」を開き、1967年、東京でも催した。1972年、「第1回上方お笑い大賞」を受賞した。1974年、株式会社「米朝事務所」を設立する。1987年、紫綬褒章を受け、1996年、上方落語家で初めて人間国宝に認定される。2009年、落語家初の文化勲章を受賞する。2010年、存命中の落語家として初の「上方演芸の殿堂入り」を果たす。得意ネタは『百年目』『はてなの茶碗』『たちぎれ線香』など、著『米朝落語全集』『米朝上方落語選』など多数。89歳。 戦後、存亡危機にあった上方落語の復興に尽力し、戦後の「上方落語四天王(ほか、6世・笑福亭松鶴、3世・桂春団治、5世・桂文枝)」の一人と呼ばれる。噺を復活し新作にも取り組む。研究者や教育者としても活躍した。精力的に独演会を開き、弟子・桂枝雀、月亭可朝、桂ざこば、桂南光ら多数を育成した。 ◆絵馬 本殿東の「金比羅絵馬館」は、それまであった絵馬堂を改築し、現代、1976年に開館した。大絵馬など50数点を展示している。 ◈「意馬心掩猿」(100×137cm)は、最も古い。江戸時代後期、1792年の画家・江村春甫(?-?)筆になる。人の心中を奔走する馬、騒ぎ立てる猿にたとえ、その煩悩が制しがたいことを表し戒めた。 ◈「牛若弁慶図」は江村春甫筆による。 ◈「双馬図」(66×81cm)は、江戸時代後期、1815年の円山派の絵師・山口素絢(そけん、1759-1818)筆による。日乞いの白馬(赤馬)、雨乞いの黒馬二頭を描く。 ◈「巴御前図」(152×212cm)は、江戸時代後期、1812年の四条派・田中日華(?-1845)筆になる。騎乗の巴御前を描いた。本人の寄進による。 ◈「玄徳渡檀渓図」(162×114cm)は、江戸時代後期、1814年の親鸞亭筆による。三国時代、蜀の皇帝・玄徳を描いている。 ◈「男断ちの絵馬」(69×91cm)は、近代、1889年に奉納された。願主は54歳の女性によるという。 ◈ほかに、篠原百和筆「天狗評議の図」、洋画家・井澤元一(1909-1998)筆「櫛まつり」、円山派・吉村孝敬(1769-1836)、四条派の奥文鳴(1773-1813)、漫画家・手塚治虫(1928-1989)のもの、小絵馬などがある。 ◈「儲かり絵馬」は、古くよりの構図になる。舟に乗る蓑笠の男が、竿先で湖の藻を刈っている。「降る(振る)ほど儲かる(藻刈る)」の縁起を担ぎ、「市芳」の号は「一方」と読む。「降るほど儲かる一方」と洒落れている。 ◈現代、2021年の新春から、落語家・5代目・桂米團治(1958-)の原画をもとにした干支の大絵馬が本殿に奉納されている。高さ1.7m、幅2m。 ◆狛犬 天満宮の狛犬は京都で最も古く、江戸時代前期、1767年建立という。 ◆縁切り縁結びの碑 「縁切り縁結びの碑(いし)」が境内に置かれている。現代、1978年に設けられた。石の本来の大きさは、高さ1.5m、幅3m、奥行き50㎝ある。二つの石が合わさり、中央部分に50cmの穴が開けられている。花崗岩。 その後、参拝者の願い事を書いた代々の「形代(かたしろ)」は現代、2010年頃一部が崩れ一度剥がされた。その後も巨大化し、形はかまくら状になっている。現在の高さ2m、幅3mあり、20万枚の札が貼られているという。 讃岐に流され亡くなった平安時代の崇徳天皇に因んでいる。天皇は、一切の欲を絶ち金毘羅宮に籠り、以来、断ち物の祈願所とされている。また、別離の苦悩より、男女の縁を妨げる悪運を断つという意味も込められている。 碑の中央に亀裂があり、それを伝い神力が下の穴に注がれているという。まず、願い事を形代(断の御札、叶の御札)に書く。本殿に参拝後、心の中にそれを念じながら表の穴を潜る。これで悪縁が切れる。続いて反対側の裏の穴を潜ることで良縁に結ばれるという。最後に願い事を書いた形代を碑に貼り付けると成就するという。 ◆鳥居 鳥居は住吉鳥居になる。明神鳥居の柱、笠木、島木が角材になり貫が柱内に収まる。近代、1914年の建立による。石造。 ◆蓮華光院 かつて、この地に蓮華光院が存在した。 鎌倉時代前期、1200年、殷富門院(いんぷもんいん、亮子内親王) の御願により、仁和寺境内(右京区)に御堂が建てられる。道尊(高倉宮以仁王の遺児)が引き継ぎ、院家の一つになる。「安井御所」、「安井法華堂」と呼ばれた。右京区太秦安井北御所町にあったともいう。殷富門院は、1192年に出家し、1216年に亡くなる。安井付近に埋葬されたという。 道円法親王(第83代・土御門天皇皇子)の入寺以来、真言宗の門跡になる。「安井門跡」、院号は「蓮華光院」と呼ばれた。その後、門跡は大覚寺(右京区)の兼帯になりやがて廃絶した。 江戸時代、東岩倉山観勝寺旧地・下河原(左京区南禅寺)に道場を建立し、安井門跡は復活する。江戸時代前期、1695年、崇徳院御影堂のあった東山安井(東山区)に、後継の道恕により寺が移される。この時、蹴上・大日山の観勝寺・真性院、光明院(光堂)も移り、吸収合併された。御影堂、毘沙門堂、準提堂、方丈などがあった。この境内の一角に金毘羅宮(現在の安井神社)が祀られた。両寺は、近代、1873年に大覚寺に移り、1876年に廃寺になる。東山安井には御殿が残り、小学校の校舎として使われた。その後、1908年に殿舎は仁和寺に移されている。旧地(東山安井)には、鎮守社の安井金毘羅宮(安井神社)が現存する。 ◆藤 かつて藤の名所として知られていた。境内に第62代・村上天皇「安井の藤」の歌碑が立つ。「まとゐしてみれともあかぬ藤なみのたゝまくをしきけふにもあるかな」。 境内には藤棚もある。 ◆久志塚 境内の「久志(くし)塚」は、現代、1962年に東山美容師会により築かれた。櫛塚であり、古い櫛の供養を目的にしている。櫛祭(9月第4月曜日)が行われている。 美願のご利益があるという。貴船石。 ◆吉川観方像 久志塚に「吉川観方小直衣之像」が立つ。 ◆歌碑 平安時代中期の第62代・村上天皇(926-967)の「安井の藤」の歌碑が立つ。「まとゐしてみれとも あかぬ藤なみの たゝまくをしきけふ にもあるかな」と刻まれている。 火山灰質粘板岩(貴船石の一種)。 ◆落語研究会 落語家・3代目・桂米朝(1925-2015)は、現代、1966年より当社で落語会「桂米朝落語研究会」を開いた。その没後、現在も続けられている。 ◆祭礼 ◈「櫛(くし)まつり」(9月第4月曜日)では、使い古した櫛、折れた櫛、簪(かんざし)に感謝し、供養する。櫛、笄の変遷について展示がある。 その後の女人時代風俗行列では、古墳時代-現代までの地毛で結った髪型と衣装を装った女性たちが祇園界隈を練り歩く。 ◈「秋季金比羅大祭」(10月1日-11日)では、平安時代後期、1156年、保元の乱で祟徳上皇を守った武者に因み、鎧兜に身を包んだ児童行列が行われる。 ◈「終い金比羅祭」(12月10日)では、神札の「吉兆稲宝来」が終い金毘羅から、1月の初金毘羅の間に授与される。稲穂に紅白の折鶴、松竹梅などを付した神札で、商売繁盛・家運隆昌・無病息災が祈願される縁起物になる。 ◆年間行事 歳旦祭(1月1日)、川友会纏奉納(1月2日)、初金比羅祭(1月10日)、節分祭(2月節分)、春季金比羅大祭(5月10日)、夏越大祓(6月30日)、櫛まつり(9月第4月曜日)、秋季金比羅大祭(10月1日-11日)、秋季火焚祭(11月10日)、終い金比羅祭(12月10日)、月次祭(毎月1日、10日)。 「桂米朝落語会」(1966年以来開かれている。)(2カ月毎)。 *参拝の一般的な順路に従って案内しています。 *年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『京都・山城寺院神社大事典』、『平安の都』、『鳥居』、『京都大事典』、『昭和京都名所図会 4 洛西』、『京都の寺社505を歩く 上』、『京都のご利益めぐり』、『京のしあわせめぐり55』、『京都の自然ふしぎ見聞録』 、ウェブサイト「東文研アーカイブデータベース-東京文化財研究所」、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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