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山名宗全邸址 (京都市上京区) Site of Yamana,Sozen Residence |
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山名宗全邸址 | 山名宗全邸址 |
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![]() 「山名宗全邸址」の碑、上京区堀川通上立売下ル一筋目北西角 ![]() 「山名宗全旧蹟」の碑、上京区堀川通上立売下ル一筋目西入ル北側 ![]() 「山名町」の町名 |
堀川通上立売下ル一筋目西入北側に、室町時代前期-中期の武将・山名持豊(宗全)についての石標「山名宗全邸址(やまな-そうぜん-てい-あと)」、その西に碑「山名宗全旧蹟(やまな-そうぜん-きゅうせき)」が立てられている。 付近に、応仁・文明の乱(1467-1477)の西軍総帥だった山名持豊(宗全)の邸宅があり、西陣が敷かれた。 ◆歴史年表 室町時代、この地には山名家代々の邸があり、武将・山名持豊(やまな-もちとよ、宗全、1404-1473)も住した。応仁・文明の乱(1467-1477)以前、現在地付近には、「山名館」があったと記されている。(「中昔京師地図」) 応仁・文明の乱(1467-1477)で、山名邸は西陣の本陣になり焼失した。 近代、1939年、3月、京都市教育会により「山名宗全邸址」の石標が立てられる。 ◆山名 持豊 室町時代前期-中期の武将・守護大名・山名 持豊(やまな-もちとよ、1404-1473)。男性。幼名は小次郎、法名は宗峰、宗全(そうぜん)、崇峰、号は遠碧院、俗称は、赤ら顔だったため赤入道。右衛門佐(うえもんのすけ)、弾正少弼(だんじょうのしょうひつ)。父・時煕(ときひろ、常熙[じようき])、母・山名師義の娘の次男。持煕の弟。1413年、正月に元服し、4代将軍・足利義持から偏諱を与えられ持豊と改名した。1421年-1422年、初陣で備後国人を討伐した。1431年、兄・持煕は6代将軍・足利義教に疎んじられ廃嫡になる。1433年、父・時煕から家督を譲られ、但馬・備後・安芸・因幡の4カ国の守護に就任した。1437年、家督相続に不満を持つ持熙が備後で挙兵し、鎮圧する。惣領権を確立する。1439年、正四位下左衛門佐に任じられ、1440年以前、侍所頭人・山城守護を兼任し、幕閣では細川・畠山両氏に次ぐ地位を占めた。1441年、赤松満祐が将軍・義教を殺した嘉吉(かきつ)の変で、持豊は追討軍総大将に指名された。播磨(兵庫県)白旗城に籠城した満祐・義雅を自殺に追い一族を滅ぼした。その功により、山名氏は播磨守護を兼帯し9カ国を領した。明徳の乱(1391)で失った領地を回復する。1442年、出家し宗峯と称した。東播磨3郡を得て赤松満政が不満を抱き、持豊は播磨へ下向する。1445年、満政を討つ。1450年、入道して宗全と号した。南禅寺に塔頭 ・真乗院を創建する。遠碧軒・棲真軒・柳月軒などを開いた。1454年、畠山持国を失脚させ、娘婿・管領・細川勝元と共に幕政の頂点に立つ。赤松遺族の則尚を討とうとして、8代将軍・足利義政と対立した。隠居し家督を嫡子・教豊に譲り但馬へ下国した。一族の実権は握り続ける。1455年、則尚が播磨で山名政豊を攻め、これを駆逐する。1458年、赤松政則が三種の神器の一つ、神璽(しんじ)奪回の功により赦免され幕政に復した。勝元との対立は決定的になる。1465年、足利義政正室・日野富子は、実子・義尚の将軍職を望み宗全に接近する。1467年、将軍家、管領・斯波(しば)・畠山家の家督争いで、当初、勝元と組み畠山氏の内紛に介入した。勝元が赤松氏再興を助けたため対立する。勝元・伊勢貞親が政長を、持豊は畠山義就(よしなり)を支持した。斯波家内紛では、勝元らが斯波義敏(よしとし)、持豊は斯波義廉(よしかど)を支持した。1月、持豊は義政に迫り、勝元の政長支援を止めさせた。義視(よしみ)を奉じた挙兵を恐れ義視を京都に移した。5月、持豊は西軍総帥(西陣・山名邸)、勝元は東軍総帥(東陣・花の御所)になり、応仁・文明の乱(1467-1477)が勃発した。西軍には大内政弘が加わる。出石此隅山城に集結し挙兵し、京都へ進軍する。東軍は禁裏・幕府を擁し優勢だった。山名一族も対立し、持豊の子・是豊(これとよ)は東軍に加わる。足利将軍家後継問題では、持豊は義政の弟・義視を嫌う富子、富子の実子・足利義尚を支持した。晩年、和平に傾く。1473年、大乱の最中に自邸・西陣陣中で病没した。70歳。 墓は南禅寺・真乗院の遠碧軒(左京区)にある。邸跡(上京区山名町)がある。 ◆山名家邸 この地には、山名家代々の邸があった。室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)以前には付近に「山名館」と記されていた。(「中昔京師地図」)。 応仁・文明の乱では、山名邸が西陣の本陣になり、乱により焼失している。 ◆西陣 ◈室町時代後期の内乱である応仁・文明の乱(1467-1477)は、山名持豊(宗全、1404-1473)と管領・細川勝元(1430-1473)の対立に、室町幕府将軍・足利義政(1436-1490)の継嗣問題、畠山・斯波両管領家の家督争いも絡んでの戦いになった。京都で始まり、持豊は西陣の総帥になり、自邸(五辻通大宮東)に陣を敷く。東陣の総帥は勝元であり、花の御所(室町今出川)に陣を敷いた。1467年1月に戦乱の火ぶたが切られた。同3月に持豊は陣中で病没し、同5月に勝元も相次いで病死している。 両陣の2人の総帥亡き後も戦いは続き、全国で諸国の大名・小名も加わり、11年にもわたり繰り広げられた。戦乱により幕府・将軍の権威は失墜する。幕府体制・荘園制は破壊され、戦国大名の領国制が新たに展開していく。戦により、京都市中の大半は焦土化し荒廃した。 ◈地名の西陣も、乱で山名邸が西軍の陣所になったことに由来する。軍は堀川以西一条以北の辺に駐屯し、この地域を西陣と称した。 「西陣」の初見史料は室町時代後期、1487年正月24日条であり、常在光寺の荒廃に触れて「西陣辺」と記され、すでに戦後10年を経て呼称されていた。(『蔭涼軒日録』)。 西陣は後に、西陣織の産地として有名になる。現在、西陣織・京友禅に象徴された繊維産業は衰退している。 ◆山名町 この地の山名町(やまな-ちょう)は、山名邸(五辻通大宮東)に因むという。 室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)以前には付近に「山名館」と記され、山名邸があった。(「中昔京師地図」)。 その後、安土・桃山時代、1571年に町名は「山名殿町」と記されている。(『御借米之記』「上下京御膳方御月米寄帳」)。 江戸時代前期、1637年には、「やまなノずし」とあった。(「洛中地図」)。寛文年間(1661-1673)後期には、「屋まな町」と記されていた。(『洛中洛外之絵図』) ❊参考文献・資料 京都市の駒札、ウェブサイト「京都のいしぶみデータベース-京都市」、『京都大事典』、『京都市の地名』、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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