紙屋川(天神川)・西堀川・御土居(北野天満宮内) (京都市北区)
Kamiya-gawa River,Site of Odoi
紙屋川 紙屋川 
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紙屋川(天神川)、北野天満宮は右手にある。




紙屋川に架かる鶯橋






北野天満宮の西、紙屋川との間にある御土居、右上が土塁の最上部


土塁の上、左が紙屋川、右が北野天満宮


右手が御土居、左の溝のようなものが紙屋川






北野天満宮の説明板より




北野天満宮の説明板より


御土居に空けられた排水溝跡(排水口)


悪水抜き取水口、北野天満宮説明板より


悪水抜き排水口、北野天満宮説明板より




紙屋川


【参照】平野御土居(北区平野鳥居前町)


御土居下にある梅林


北野天満宮下流、住宅地を流れる紙屋川




【参照】紙屋川最上流


【参照】「円町」の地名板
 紙屋川(かみや-がわ)は、総延長4kmほどあり、天神川の上流部をいう。水源地は鷹峯(北区)の山中、上水峠ともいう。 
 川の上流部、北野天満宮の西付近までを紙屋川と呼ぶこともある。川の大部分(鷹峯千束町以南)は、「天神川」(総延長14.24km)と総称される。また、「西堀川」の異称もあった。川の下流で、御室(おむろ)川が合流し、終点は桂川に合流する。
◆歴史年表 平安時代、紙屋川は西堀川(西の堀川)と呼ばれた。西堀川は、右京二坊、現在の紙屋川(天神川)付近を、北から南へ流れ下っていた。川は、材木などの輸送にも使われた。
 805-809年/802年、川畔に紙屋院が設けられた。
 平安時代中期、12世紀(1101-1200)前半、西堀川の流路が変わり、川は埋没する。
 平安時代中期-中世(鎌倉時代-室町時代)、大雨の度に氾濫していたとみられる。
 その後、東の堀川が堀川と呼ばれるようになる。
 安土・桃山時代、1591、豊臣秀吉による御土居(お土居)築造の際に、紙屋川の外(東岸)に土塁が築かれる。
 近世(安土・桃山時代-江戸時代)、紙屋川は紙屋川石、赤小石の産地になった。農業用水としても利用された。    
 近代、1935年、昭和十年大洪水の際には大きな被害が出ている。
 現代、1965年、北野天満宮境内の御土居1カ所が国の史跡に追加される。
◆紙屋川 紙屋川は、柏野(かえの)を流れていたことから、「柏(かい/かへ)川」ともいわれた。現在も、紫野柏野町の町名が残る。ほかにも「替(かい)川」、「可井川」、「高橋川」、「高陽(かい/かや)川」、「賀耶(かや)川」、仁和寺境内に含まれていたため「仁和川」、北野神社と平野神社の間を流れたことから「神谷(かみや)川」などとも呼ばれた。
◆西堀川 平安時代、平安京には二つの運河・堀川が流れていた。一つは東堀川(東の堀川)であり、現在の堀川の位置になる。もう一つは右京の西堀川になる。現在の北野天満宮の西を流れる紙屋川の南進線上になる。二つの堀川は、朱雀大路を挟み、左右対称の位置にあり、流路は直線だった。
 西堀川は、西堀川小路(現在の西土居通)の中央付近を流れていた。北は紙屋川に、南は西高瀬川に合流した。現在の北野天満宮の西付近と、南下した吉祥院天満宮の東付近を結ぶ線上に重なる。西堀川の川幅は当初2丈(6m)、廃絶期には4丈(12m)ともいう。
 西堀川は、材木などの輸送にも使われた。氾濫が相次ぎ、やがて、西堀川の流路が変わり、平安時代中期には埋没し廃れる。その後、東の堀川が堀川と呼ばれる。その位置は現在の堀川の流路とほぼ同じとされている。
 江戸時代、西堀川の旧流路の西寄りに天神川が通じ、西高瀬川に合流していた。近代、1935年の京都大水害後、御室川の流路の一部を利用し、さらに西寄りの現在の天神川が付け替えられ、桂川に合流している。
◆紙屋院 紙屋の名は、平安時代にあった「紙屋院(かんやいん/しおくいん、造紙院)」に由来している。
 紙屋院(右京区花園木辻付近とも)は、官営の製糸所であり、平安京遷都後、平安時代前期、805年-809年/807年、山城国の紙戸(しこ)が廃止され、官立の図書寮のもと紙屋院が設置された。川のほとり宿紙(すくし)村(北野神社付近、円町付近)には、紙師が住み、紙座を結んでいた。原料は麻、こうぞが用いられた。渡来した紙漉きの技術も、独自の「流し漉き」(簀や網の上で紙料の紙層を作る漉き方)が確立され、高級紙・紙屋院紙の普及が行われた。
 平安時代末期、原材料不足により、古紙や反故紙(ほごがみ、書き損じた書画紙など)を使って漉き返しを行う。このため紙に墨色が残り、「薄墨紙(水雲紙、宿紙、黒紙)」と呼ばれ紙質の低下を招く。綸旨(りんじ 、蔵人が勅旨を受けて出す奉書形式の文書)に用いられ、「綸旨紙」とも呼ばれた。中世(鎌倉時代-室町時代)、図書寮を本所として宿紙上座を組織した。下座が置かれた。紙屋院は南北朝時代に廃止される。
 近世になり、京都には紙漉師がおり、紙問屋が商った。この頃、地方産の紙(地紙)が大量流通するようになる。江戸時代前期、元禄年間(1688-1704)に、万(よろず)紙問屋として、越前屋市郎兵衛など4軒が知られていた。紙屋は、永原屋など9軒があった。
◆荒忌 紙屋川は「荒見(あらみ)川」ともいわれた。荒見は「散斎(あらいみ)」に通じる。散斎、荒忌(あらみ)は、祭祀の際に、神事に従事する者が真忌(まい)みの前後に行う物忌みをいう。旧9月晦日には、大嘗祭に奉仕する上卿以下の官吏が禊した。
 平野神社の北辺に斎場があり、朝廷の重要な祭儀の前には、川の上流で潔斎(けっさい、神事などの前に心身を清めること。物忌み)が行われていた。禊も中世には途絶えた。
 現在も衣笠荒見町、衣笠大祓(おおはらい)町の地名が残る。この付近で禊祓いが行われていたという。
◆御土居 室町時代後期、応仁・文明の乱(1467-1477)後、高倉より東、松原以南は、相次ぐ鴨川の氾濫により荒地になった。
 安土・桃山時代、1591年に、豊臣秀吉(1536-1598)は京都の再興・改造を手がける。細川幽斉(1534-1610)、前田玄以(1539-1602)などに命じ、洛中の周囲をめぐらせる堤防・惣構施設の「御土居」の築造させた。諸国大名らにより同年1月に着工になり、旧閏1月に2カ月で完成したという。(近衛信尹『三藐院記[さんみゃくいんき]』)。また、2-4カ月/5カ月の突貫工事で完成させたともいう。
 御土居は、北は上賀茂・鷹ヶ峰、西は紙屋川(天神川)・東寺の西辺、南は東寺南の九条通、東は鴨川西岸の河原町通まで築かれた。当時存在していた聚楽第、京都御所も土塁内側に取り囲んでいる。規模は、東西3.5km、南北8.5km、総延長は22.5kmにもなった。
 御土居は、当初「土居堀」と呼ばれた。ほかに「京廻りノ堤」、「新堤」、「惣曲輪(そうぐるわ)」、「土居」などとも呼ばれ、江戸時代には「御土居」と称されるようになる。
 御土居の構造は外側に堀(濠)、内側に台形状の土塁を築いた。工法は「掻揚城(かきあげしろ)」が採られ、掘った堀の土を積み上げて土塁を築き、積石・石垣で地盤を固めた。墓石・地蔵なども「礎石」として使われている。なお、当時の構築物では一般的なことだった。掻揚だけでは、土塁を築く土量が不足したとの見方もある。
 土塁規模は一定しておらず、高さ3.6-5.4/6m、基底部幅10-20m、頂上部幅4-8m、犬走り1.5-3mあった。土塁頂上は、盛土の保護・強度を増すために竹林が植えられ覆われていた。このため、竹薮の伐採は厳禁された。土塁の外には、堀(幅3.6-18m/12.5-20m、深さ1.5-2.5m)が設けられていた。堀は河川・池・沼などの自然地形も利用して築造されている。堀には水が溜められ、江戸時代には、農業用水としても利用されている。 
 御土居には「京の七口」と呼ばれる出入口が開けられ、主要な街道に通じていた。出入口は特定されず、当初は10カ所あり、江戸時代前期には40カ所にも増えたという。
 「普請太閤」といわれた秀吉の御土居築造の意図は、複合的なものとされる。一般的には、鴨川・紙谷川(天神川)などの氾濫に対する水害対策・防災的な堤防の意図が強かった。さらに、外敵に備える防塁の意味も加わる。平安京以来、京都は九条大路の南以外には羅城は築かれていなかった。御土居により初めて、本格的な城塞により囲まれることになる。
 御土居築造により、都の開発は鴨川の間際まで進んだ。また、聚楽第・御所を取り込むように構築されたため、「洛中」・「洛外」の区分を生み洛中範囲の確定に繋がった。軍事的な城壁の役割、権勢誇示という政治的な意味合いもあった。それまでの権力支配(朝廷・公家・寺社)から町衆を分断させ、聚楽第を中心にした新都市の再編・支配が強行されたともいう。1591年の御土居築造が、1592年の文禄の役の前年にあたり、秀吉の朝鮮・明攻略を前提とした首都防衛機能の一環だったともいう。なお、築造に際して、小田原城の城下を模したとする見方もある。
 御土居築造に先立ち、新たに「町割(天正町割)」も行われた。1590年に寺院に対し「寺割」が実施される。それまで散在していた寺院を強制移転させ、新たに寺町、寺之内、本願寺などの寺院町を形成させた。これにより、防御・防災、税徴収の効率化、寺院と民衆の結びつきの分断の意味もあったという。
 平安京以来の条坊制は、東西南北一町四方(正方形)の区画を基本としていた。これでは、中心部に無駄な空地が生じる。秀吉は一部を除き、これを半町一町の短冊型(長方形)の区割りに再編する。半町毎に、新たな南北の道路(小路)を設けた。この新しい町割により、町家数・人口増加をもたらし、検地の効率も高められた。
 御土居の保全は、京都所司代の命により、近郊の農民が駆り出されていた。江戸時代前期、1669年以降は、角倉了以の子・角倉与一が「土居薮之支配(奉行)」に任じられ、管理権を与えられている。この頃、御土居に繁茂した竹(土居薮)を民間に払い下げている。竹は資材として利用された。
 御土居築造から40年ほどで、都の開発が御土居を越えて進行する。鴨川には新たな堤防が築かれ、東側の開発が進み土塁は取り壊された。御土居のうち堤防の役割を果たしていたものを除き、大部分は次第に撤去され、屋敷用地・道路などに転用される。なお、江戸時代中期、元禄期(1688-1704)までは、堀はまだ水堀としては機能していた。その後、築造後100年を経て堀は埋没し、周辺住民の生活廃材の捨て場になった。このため、後の発掘調査により土器・陶磁器、瓦、金属製品、石加工品、木製品などが多数出土している。
 近代以降、1870年の京都府の「悉皆開拓」令により、府は土地の払い下げを通達している。以来、御土居の破壊が急速に進行する。「お土居薮地」は、田圃、畑、桑畑、茶畑などに開墾することが奨励された。現代、1945年の第二次大戦後は、土塁遺構の大部分は消失し、現在はごく一部のみが保存されている。
◆北野天満宮の御土居 紙屋川の外(東岸)に御土居の土塁が築かれた。現在も北野天満宮の西、紙屋川との間には遺構が保存されている。
 平安時代には、北野天満宮東側に西大宮川(松葉川)が流れていた。水は平安京大内裏大宮御所の御用水として使用され、北野は清浄の地とされた。
 安土・桃山時代、1591年に、豊臣秀吉は御土居築造を行い、御土居の北西になる鷹ヶ峯、北野天満宮、円町付近は紙屋川の自然地形を濠として利用した。
 北野天満宮境内の御土居管理について、奉行ではなく土塁の築造直後に天満宮側に引き渡されている。境内の御土居は、旧平安京の北西(乾)にあたる最も重要な箇所とされた。境内に水が溜まるのを防ぐため、排水溝遺構「切石組暗渠(悪水抜石伏樋、悪水抜き)」が設けられた。地下式か蓋付導水路になっていた。洛中で唯一の御土居を貫通する排水溝(20/19.3m)は、土塁下に開けられ、土塁内に溜まった水を紙屋川へ落とした。
◆国史跡 近代、1919年の史蹟名勝天然祈念物保存法、1930年には御土居8カ所が国史跡指定地になった。
 その後、現代、1965年に北野天満宮境内の1カ所が追加され、現在、9カ所が指定地になっている。1.平野(北区平野鳥居前町)、2.紫野(北区紫野西土居町)、3.鷹ヶ峯(北区鷹ヶ峯旧土居町)、4.鷹ヶ峯(北区鷹ヶ峯旧土居町)、5.大宮(北区大宮土居町)、6.紫竹(北区紫竹上長目町)、7.蘆山寺(上京区来之辺町)、8.西ノ京(中京区西ノ京原町)、9.北野天満宮(上京区馬喰町)になる。
 史跡指定地のほかにも、4カ所で土塁遺構が見られる。
 

*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 『日本の古代遺跡 28 京都Ⅱ』、『京都歴史案内』、『京都の地名検証』、『京都の地名検証 2』、『昭和京都名所図会 5 洛中』、『京都大事典』、『豊臣秀吉と京都 聚楽第・御土居と伏見城』、『御土居堀ものがたり』、『洛中洛外』、『御土居跡』、『秀吉の京をゆく』、『京都の地名検証 2』、『京都の地名検証 3』、『京都大事典』、『京都府の歴史散歩 上』、『京都・観光文化 時代MAP』、『都市住宅 特集 京の川・京の町なみ 7410』、 『建築家秀吉』、京都市考古資料館-京都市埋蔵文化財研究所、北野天満宮の説明板、『京都の災害をめぐる』、ウェブサイト「コトバンク」


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