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後陽成天皇 深草北陵 (京都市伏見区) Imperial mausoleum of Emperor Goyozei |
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後陽成天皇 深草北陵 | 後陽成天皇 深草北陵 |
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![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 法華堂 ![]() |
深草坊町(ふかくさ-ぼうちょう)に深草北陵(ふかくさ-の-きた-の-みささぎ)はある。「十二帝陵」、「深草十二帝陵」、「深草法華堂」などと呼ばれた。 安土・桃山時代-江戸時代前期の第107代・後陽成天皇(ごようぜい-てんのう、1571-1617)が葬られている。持統院統の12天皇、1親王が共同の納骨堂に合葬されている。 ◆歴史年表 江戸時代、1617年、8月26日、後陽成天皇が亡くなる。9月20日、泉涌寺で火葬された。9月21日、遺骨は深草法華堂に納められる。(『後十輪院内府記』『泰重卿記』『皇年代略記』) ◆後陽成天皇 室町時代後期-江戸時代前期の第107代・後陽成天皇(ごようぜい-てんのう、1571-1617) 。和仁(かずひと)、周仁(かたひと)。京都の生まれ。第106代・正親町天皇の皇子・誠仁(さねひと)親王(陽光院)の第1王子。母は勧修寺晴右の娘・藤原晴子(新上東門院)。1586年、期待された父・誠仁親王が皇位継承前に亡くなり、親王宣下を受けた。親王が正親町天皇の譲位により養子になり16歳で践祚、即位した。太政大臣・豊臣秀吉は、前関白・近衛前久の娘・前子を猶子にして入内させ、外戚になる。1588年、関白・秀吉の奏請により支度料を贈られ、完成した聚楽第に行幸する。秀吉は諸国大名に権勢を誇示した。1592年、詔書(渡海諭止)を発する。秀吉の「豊太閤三国処置計画」、朝鮮渡海は阻止された。正親町上皇の意志によるとみられている。1607年、左少弁・猪熊教利が官女と密通した宮女密通事件(猪熊事件)、1609年、参議・烏丸光広ら若公家衆の遊興・密通が起こる。後陽成天皇は幕府の処分に不満があり、譲位の意志があった。だが、家康は延期させた。1610年、譲位の確執は家康に抗される。1611 年、政仁親王(後水尾天皇)に譲位し、院政を行う。 朝廷の復権期であり、秀吉との関係は良好だった。家康は、即位、譲位、改元、官位叙任権、朝儀まで干渉し対立する。舟橋秀賢に漢学、細川幽斎に和学を学ぶ。木活字(慶長勅版)の『古文孝経』『日本書紀』神代巻などを刊行させた。詠歌に『後陽成院御製詠五十首』、日記『後陽成院宸記』がある。大字の書も知られ社寺の勅額を筆した。京都で没した。47歳。 陵墓は深草北陵(伏見区)になる。灰塚は、月輪陵(東山区)域内に九重塔が立つ。 ◆陵墓 深草北陵は、冠木門、築地塀に囲まれた中に、方形堂が南面して建てられている。持統院統の12天皇、1親王が納骨され、共同の納骨堂(天皇家の墓)に13人を合葬する。 江戸時代、1617年8月、後陽成天皇が亡くなる。泉涌寺で火葬された。最後の火葬になった。その後、遺骨は深草法華堂に納められる。 ほかの被葬者は、鎌倉時代の第89代・後深草天皇(1243-1304)、第92代・伏見天皇(1265-1317)、鎌倉時代-南北朝時代の第93代・後伏見天皇(1288-1336)、南北朝時代の北朝第4代・後光厳天皇(1338-1374)、北朝第5代・後円融天皇(1359-1393)、南北朝時代-室町時代の第100代・後小松天皇(1377-1433)、第101代・称光天皇(1401-1428)、第103代・後土御門天皇(1442-1500)、第104代・後柏原天皇(1464-1526)、第105代・後奈良天皇(1497-1557)、第106代・正親町天皇が納骨されている。 南北朝時代-室町時代の伏見宮栄仁親王(1351-1416)が納骨されている。 106 正親町天皇(在位:1557-1586)→107 後陽成天皇(在位:1586-1611)→108 後水尾天皇(在位:1611-1629) *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『検証 天皇陵』、『天皇陵 謎解き完全ガイド』、『歴代天皇125代総覧』、『図説天皇陵』、『古代史研究の最前線 天皇陵』、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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