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専念寺 (京都市左京区) Sennen-ji Temple |
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専念寺 | 専念寺 |
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専念寺(せんねん-じ)は、武将・前田玄以ゆかりの寺として知られている。山号は一心山という。 浄土宗、本尊は阿弥陀如来。 ◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。 年代不詳、開山は故念上人による。 ◆故念 浄土宗の僧・故念(?-?)。詳細不明。 ◆前田 玄以 室町時代後期-安土・桃山時代の武将・前田 玄以(まえだ-げんい、1539-1602)。男性。名は宗向、孫十郎基勝、号は半夢斎、策勝軒。美濃(岐阜県)の生まれ。父・前田基光。村井貞勝の娘婿。比叡山で出家し、尾張・小松寺の僧になる。織田信長臣下になる。1575年、信長の嫡子・信忠付の近習になった。1579年、信長の命で信忠の家臣になる。1582年、本能寺の変で信忠が自害し、その嫡男・三法師(秀信)とともに岐阜に逃れ清須に赴き保護した。この功により、1583年-1600年、信忠の弟・信雄より京都奉行に任じられる。以後、17年間在職し禁裡御用地・門跡領・寺社領管理などを行う。この間に朝廷から「徳善院」の称号を授かった。1584年、豊臣秀吉に仕え、右筆(ゆうひつ)ともいう。その信厚く、1585年、丹波亀山5万石を給される。1588年、第107代・後陽成天皇の聚楽第行幸で奉行、寺社奉行で当初はキリシタンを弾圧した。1595年、豊臣秀次の問責に当たり、妻妾を亀山に預った。1598年、豊臣政権下五奉行の1人に任じられた。同年、秀吉没後、徳川家康と石田三成の対立では三成方に属した。1600年、秀吉没後、遺骸を伏見城から阿弥陀ヶ峰に密かに葬送した。豊国社造営の普請奉行を務める。家康を討つよう長束正家・増田長盛らと諸大名に命じた。関ヶ原の戦は西軍に与し、大坂城に居り参戦しなかった。東軍・徳川方に通じ、戦後、京都所司代の職は解かれる。金剛寺(河内長野)に謹慎になり、家康に許され丹波亀山の本領安堵、初代藩主になる。64歳。 故事・典例・故実に通じ、千利休に茶を学んだ。秀吉の京都屋敷(妙顕寺城)の普請奉行になる。留守役を預かる。 墓は妙心寺・蟠桃院(右京区)、専念寺(左京区)にある。法名は「徳善院殿天涼以公大居士」になる。 ◆加藤 嘉明 安土・桃山時代-江戸時代前期の武将・加藤 嘉明(かとう-よしあき/よしあきら、1562-1631)。男性。幼名は孫六、茂勝、左馬之助。三河国(愛知県)の生まれ。13歳で羽柴秀吉に仕え、秀勝に付き、後に秀吉の直属になる。1583年、賤ヶ岳の戦いで七本槍の一人として戦功ある。1584年、淡路・石志智城主になる。1585年、従五位下左馬助に叙される。1586年-1587年、船手の将として九州征討、1590年、小田原攻め、1592年-1593年・1597年-1598年、文禄・慶長の役に水軍の将として戦功ある。1595年、伊予松前に転封になった。1598年、秀吉没後、石田三成らと対立し、徳川家康に従う。加増された。1600年、関ヶ原の戦いで東軍・徳川方につき、1602年、伊予松山を加増され、松山城の築造に着手した。1614年、大坂冬の陣で江戸城留守居、1615年、夏の陣に参陣した。1622年、3代将軍・徳川家光の鎧着初(よろいきはじめ)の介添役を務めた。1623年、従四位下に叙せられる。1626年、徳川秀忠・家光の上洛に供奉し、侍従に任じられた。1627年、加増され、会津を領し若松城に入部する。領内白河街道滝沢峠を開削した。病になり、江戸に移り会津藩江戸屋敷で亡くなる。69歳。 徳川政権下で、江戸城・駿府城・篠山城・名古屋城などの修築を担う。軍法、民政にも優れた。茶道をよくし、桂離宮の松琴亭前の石橋を寄進した。 墓は当初は善福寺(江戸麻布)にあった。大谷祖廟(東山区)に改められた。専念寺(左京区)にもある。 ◆墓 ◈前田玄以の供養塔という五輪塔が立つ。 ◈加藤嘉明夫妻の墓という小五輪塔がある。墓石の法名は旧法名「松苑院殿」と刻まれている。3代・明友の妻の墓と並ぶ。詳細は不明。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『昭和京都名所図会 2 洛東 下』、『京都戦国武将の寺をゆく』、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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