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 円山公園 (京都市東山区)
Maruyama-koen Park
円山公園 円山公園 
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樹齢800年以上の祇園枝垂桜


祇園枝垂桜の後継木。


祗園祭山鉾収蔵館、祇園祭の各山鉾が収められている。


「祇園小唄歌曲碑、譜面銅板」


ラジオ塔


働く少年の像


坂本龍馬、中岡慎太郎の銅像


料亭「左阿弥」(1849-)


花灯路・竹灯り「幽玄の川」


【参照】「円山町」の町名
 円山公園(まるやま-こうえん)は、東山の景観を取り入れた、京都市で最も古い公園としていまも親しまれている。
 一帯は、旧祇園社社域の一部であり、円山安養寺、長楽寺、双林寺などの寺院も建ち並んでいた。円山の名は、この円山安養寺に因んでいる。公園は、近代の廃仏毀釈による寺院破壊の跡地を整備して開設された。
 枝垂桜(円山公園)は、「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン 1つ星観光地」(改訂第4版)に選ばれている。なお、枝垂桜は京都府花に指定されている。 
◆歴史年表 平安時代、辺り一面の台地には葛・ススキが生い茂り、真葛ヶ原(まくずがはら、真葛原)と呼ばれていた。
 延暦年間(782-806) 、安養寺は、最澄が開創したとされ、法然・親鸞が念仏を発祥した「吉 水草庵」をこの地に結ぶ。
 鎌倉時代、建久年間(1190- 1199 ) 、慈鎮が吉水草庵を中興し「慈円山安養寺」と称した。
 佐渡に流された順徳院(順徳天皇、1197-1242)は、「深山より杉の風や通ふらん真葛ヶ原に露のこぼるる」と詠んだ。慈円僧正は、「わが恋は松を時雨の染めかねて真葛ヶ原に風さわぐなり」と詠み、以来、和歌の名所になる。
 江戸時代、安養寺境内には時宗寺院の子院、六阿弥坊の勝興庵(正阿弥)、長壽院(左阿弥)、花洛庵(重阿弥)、多福庵(世阿弥)、延壽庵(連阿弥)、辨天堂が立ち並び、遊興地になった。
 1702年、旧7月、安養寺の塔頭・花洛庵重阿弥で、赤穂浪士による密議(円山会議)が行われた。
 付近に南画家・池大雅(1723-1776)も住んだ。江戸時代、八坂神社境内の「祗園の夜桜」見物など、一帯は祇園林と呼ばれ、夜桜の名所になった。一帯は多様な活動が展開される行楽の域になった。
 近代、1871年、明治維新の廃仏毀釈(神仏分離令は1870)、上知令(1871)で、祇園感神院(現八坂神社)は壊され、仏像・経典も燃やされた。祇園社の宝寿院、宝光院、神福院、竹房、鳥居房などの三院三坊も打ち壊され、境内を除く全ての寺領は官に没収される。 安養寺・六坊、長楽寺、雙林寺なども官有地となる。(太政官布告第4号(第1次上知令)
 1873年、1月、政府は、太政官布告を出し、各地に公園を設けるように命じた。吉水温泉が竣工した。旧宝寿院の庭にあった老桜(初代枝垂桜)は、伐採されようとしていたところを明石博高が買い上げ、その位置に残した。
 1886年、12月25日、円山公園が開設される。(「府告示」)。也阿弥ホテルが増築された。
 1889年、公園は京都府から京都市に移管される。
 1890年-1905年、公園の第1拡張工事が行われる。
 1892年、4月1日、公園にアーク燈を設置した。(「京都日出新聞」)
 1894年、也阿弥ホテルが増築される。
 1895年、蹴上疏水から引水し、噴水が設置される。5月24日、日清戦争凱旋祝賀会が御所・円山公園で行われる。(「京都日出新聞」)
 1899年、也阿弥ホテルが焼失した。
 1901年、也阿弥ホテルが再建される。
 1906年、也阿弥ホテルが再び火災になり、吉水温泉と共に全焼する。
 1906年-1909年、公園の第2次拡張工事が行われた。
 1908年、 也阿弥ホテル、吉水温泉が閉業した。
 1909年、長楽館が竣工になる。
 1910年-1930年、公園の改良工事が行われた。
 1914年、公園が完成した。
 1928年、野外音楽堂が建てられる。
 1917年、文化財保護法により名勝地になった。
 1927年、音楽堂が開設された。
 1931年、公園は「史蹟名勝天然紀念物保存法」により、国の名勝に指定された。
 1932年、ラジオ塔が設置される。
 1934年、坂本龍馬・中岡慎太郎銅像の除幕式が行われる。(「京都日出新聞」)
 1937年、初代「祇園ノ枝垂桜」が国の天然記念物の指定を受ける。
 現代、1949年、造園家・佐野藤右衛門が実生から育てた桜を2代目枝垂桜として移植する。
 1956年、都市公園法に基づき都市公園になった。
 1962年、坂本龍馬・中岡慎太郎像が再建された。
 1967年、古都保存法特別保存地区に指定される。
 1968年、祗園祭山鉾収蔵館が開設されるる
 1979年、2代目「祇園枝垂桜(イトザクラ)」が、16代・佐野藤右衛門により移植された。
 1993年、公園内で琵琶湖疏水の水使用を休止する。
 2017年度より、公園の再整備が行われる。
◆順徳 天皇 鎌倉時代前期-中期の第84代・順徳 天皇(じゅんとく-てんのう、1197-1242)。男性。守成(もりなり)、佐渡院。京都の生まれ。父・第82代・後鳥羽天皇、母・藤原範季(のりすえ)の娘・修明門院重子(しゅうめいもんいん-じゅうし)の第3(2とも)皇子。卿二位邸で誕生した。範季が養育する。1199年、源頼朝の没後、父・後鳥羽上皇は、王朝の権力を回復しようとした。1200年、兄・第83代・土御門天皇の皇太弟になる。1208年、元服する。1210年、後鳥羽上皇は、土御門天皇に退位を迫り、14歳で寵愛した順徳天皇を即位させた。即位後の内裏は閑院になる。後鳥羽上皇は院政を敷き、天皇は父の鎌倉幕府打倒計画にも参わる。1221年、皇子・懐成(かねなり)親王(第85代・仲恭天皇) に譲位後、挙兵し北条義時を中心とする幕府軍と戦い敗れた。(承久の乱) 。佐渡に配流になり、21年間を同地で過ごした。1242年、第87代・四条天皇の没後、皇嗣には承久の乱に関わらなかった土御門上皇の皇子・邦仁親王(第88代・後嵯峨天皇)が即位した。順徳上皇は、皇子・忠成(ただなり)親王が践祚(せんそ、皇嗣が天皇の地位を受け継ぐ)されず、帰京の夢を絶たれた。失意のうちに同地で没する。自ら絶食して憤死したともいう。後に、その死は怨霊とされた。
 和歌、詩、管弦、有職故実に通じ『禁秘抄(きんぴしょう)』を著し、後世に影響を与えた。歌集『順徳院御集』などがある。配流後は佐渡院と称され、1249年、順徳院と追号されている。佐渡(新潟県)で没した。46歳。
 火葬塚(新潟県佐渡市)があり、当初は真野山に葬られた。「真野御陵(まのの-みささぎ)」と呼ばれる。江戸時代には松と桜が植えられ、崇敬を集めている。近代以降は政府が管理している。その後、大原陵(左京区)に改葬された。
◆慈円 平安時代後期-鎌倉時代前期の天台宗の僧・慈円(じえん、1155-1225)。男性。法名は道快、通称は吉水僧正、無動寺法印、諡号は慈鎮。父・摂政関白・藤原忠通、母・藤原仲光の娘。九条兼実の弟。1165年、11歳で延暦寺の青蓮院に入り、1167年、覚快法親王の室に入って出家し、道快と称した。1181年、慈円と改名した。1192年、権僧正、天台座主、護持僧になった。1193年、座主を辞し、東山の吉水の祈祷道場大懺法院に住む。1196年、座主の地位を追われ、1201 年、再び座主になり、都合4度座主になった。1203年、大僧正になり、後鳥羽上皇(第82代)の護持僧になった。1221年、承久の乱後、新たに大懺法院を整備した。無動寺検校、四天王寺別当などを務めた。71歳。墓は比叡山東坂本小島坊、善峰寺にもある。
 公武協調した史書・史論書の『愚管抄』を著した。歌人として知られ、『新古今和歌集』、家集『拾玉集』にも多くの歌が収められている。
 慈円は天台座主でありながら、当時の新興宗教だった浄土宗開祖・法然、浄土真宗開祖・親鸞に理解を示し、延暦寺の圧力から庇護した。慈円が法然に与えた院内一坊跡に、法然没後、門弟の源智により勢至堂が建立され、知恩院の起こりになった。9歳の親鸞の得度に際して、剃髪の師になった。
◆池 大雅 江戸時代中期の文人画家・池 大雅(いけの-たいが/いけ-たいが、1723-1776)。名は無名、字は公敏、貸成、別号は烏滸釣叟、霞樵、竹居。京都上賀茂深泥ヶ池の生まれ。家は深泥池の農家で、父は西陣の扇屋「菱屋」で、京都銀座役人中村氏手代を勤めた。3歳で既に「金山」の文字を書く。4歳で父を亡くし、7歳の時、萬福寺で書を披露し「神童」といわれる。1737年、15歳で家業を継ぎ、扇屋の袖亀堂(二条樋口町)を開く。16歳で彫印店を開き篆刻をした。文人画家・柳沢淇園(ぎえん)に指墨画を学ぶ。20歳で聖護院門前に移る。1748年、富士山を踏破し、1749年、白山、立山、1750年、紀州の祇園南海を知る。30歳頃(24歳とも)に画家・玉瀾(町)と結婚し、知恩院袋町、祇園真葛原に住した。草堂前は門前市の賑わいになる。
 舶載を独学し、中国南宋画を学び、琳派、西洋画も取り入れる。文人画(南画)大成者のひとりになる。中国の故事、名所、日本の風景などを描いた。書家、俳人としても知られる。作品は40歳代に描いた「黄檗山萬福寺東方丈障壁画」30数面、与謝蕪村と共作した「十便十宜図」(1771)などがある。日本南画の祖とされた。54歳。
 遺言により養家・菱屋の菩提寺である浄光寺(上京区)に葬られた。
◆建内 繁継  江戸時代後期-近代の社僧・建内 繁継(?-?)。宝寿院尊福。自坊は宝寿院だった。社務執行。1868年、還俗した。1872年、神勤を解かれる。
 墓所は金戒光明寺(左京区)になる。 20
◆明石 博高 江戸時代後期-近代の医師・化学者・衛生学者・殖産家・明石 博高(あかし-ひろあきら、1839-1910)。男性。名は博人、号は静瀾。京都の生まれ。父・代々の医薬舗「浩然堂」を営む弥三郎、母・浅子。5歳で父が亡くなる。外祖父・蘭方医・松本松翁に育てられ、西洋医術・化学製薬術を学ぶ。14歳頃、桂文郁に古典医学を学んだ。宮本阮甫・武市文造にオランダ語、柏原学介に物理学、錦小路頼徳に解体術、主に新宮凉閣に解剖・生理・薬物・臨床医学、新宮凉民にも学ぶ。田中探山に本草学、辻礼甫に化学・製薬術・測量術を学んだ。1865年、京都医学研究会を創設した。1866年、公家・錦小路頼言(にしきこうじ-よりあき)に入門し、医道免許を受けた。自宅で理 科学研究会「煉眞舎(れんししゃ)」を主宰し、理化学・薬学を研究した。1868年、博高は頼言に建議し御所内病院(烏丸一条下ル、施薬院三雲宗順宅)を開設し、医務を担当した。戊辰戦争の死傷者救済を行う。1869年、煉眞舎を三条通室町に移す。大阪・浪華仮病院を創設し、薬局主管・看頭になる。オランダ人・ハラタマ、ボードインらを招く。大阪舎密局のハラタマの助手も務める。1870年、煉眞舎は三井別邸に移る。京都府参事・槇村正直の誘いで京都府に出仕した。京都舎密局を創設し、局長になった。1871年、勧業掛になり、主吏に就く。1874年、京都で日本初の医師免許試験の実施を提言した。1877年、コレラの流行に際して、再流行を予言し検疫制度の採用を提案する。1881年、府知事・北垣国道に代わったため府を辞している。京都舎密局の廃止に際し、払下げを受けた。伏見製作所も払い下げられた。私財を尽くして支援する。1983年、私邸(河原町蛸薬師東入ル)に厚生病院を開き院長を務めた。明石と2人の医師は無給で、診療費も貧富を考慮し「適宜」とした。1884年、京都舎密局は多額の負債で困難をきたし閉鎖している。1887年、厚生病院も廃止され、その後は市井の医師として活動を続けた。著『日本薬泉考』『化学撮要』など。72歳。
 槇村正直、山本覚馬、三井源右衛門らと親交があった。博高は数多くの政策・事業に関与している。養蚕場(1871)、鴨東牧畜場(1872)、鉄具製工場(伏見製作所)(1873)、製靴場(1873)、織殿(1874)、染殿(1875)、梅津製紙場(1876)、日本初の小学校、英学校、農学校、女紅場(にょこうば)、博物館、観象台、勧業場(1871)、授産所、療病館(1870)、京都療病院(1872)、避病院(1872)、医学校(1872)、粟田口解剖所(1872)、医務取締制(1872)、医師試験制度(1874)、合薬会社アポテーキ(1874)、京都癲狂院(とんきょういん)(1875)、官立司薬場(1875)、円山吉水温泉などを創設した。京都博覧会開催にも関わる。1873年に、円山の枝垂桜を伐採から守った。
 墓は京都市営清水山墓地(東山区)にある。神道のために当初は墓は立てられず、松の木が植えられていた。1959年、明石家、明石博高翁顕彰会により墓が立てられている。
◆7代・小川 治兵衛  江戸時代後期-近代の造園家・小川 治兵衛(おがわ-じへい、1860-1933)。男性。源之助。山城国(京都府)乙訓郡の庄屋・農家に生まれた。父・山本弥兵衛。1877年、岡崎の庭匠・小川家(「植治」「田芝屋」)の養子になる。6代に付く。遠州流を学んだ。法然院・大定に薫陶を受けた。7代目治兵衛を継ぎ「植治(うえじ)」と称した。天才的と謳われ山県有朋、西園寺公望らの後援を得た。今日の「植治流」造園技術を確立する。73歳。
 碧雲荘、無鄰庵、平安神宮神苑、清風荘、円山公園、京都国立博物館庭園、対龍山荘庭園など100あまりの庭園を手掛け、「植治の庭」と呼ばれた。京都御所、修学院離宮、桂離宮などの復元修景にも関わる。辞世は、「京都を昔ながらの山紫水明の都にかへさねばならぬ」だった。
 墓は佛光寺本廟(東山区)にある。
◆佐野 藤右衛門 近現代の造園家・作庭家・16代・佐野 藤右衛門(さの-とうえもん、1928-2025)。男性。京都市の生まれ。父・15代・佐野三郎(藤右衛門)。家業は仁和寺出入りの庭師「植木屋の藤右衛門」。京都府立農林学校(現・京都府立大学)を卒業する。第二次世界大戦末期、義勇軍として満州派遣される予定だった。1945年、病気により京都帝大附属摂津農場(高槻市)で終戦を迎えた。帰郷後、父のもとで庭師として研鑽を積む。1957年、パリの国連教育科学文化機関(ユネスコ)本部の日本庭園(イサム・ノグチ設計)など海外でも活躍する。1981年、16代を襲名した。1989年、黄綬褒章、1997年、ユネスコのピカソ・メダルを授与される。1999年、勲五等双光旭日章を受章する。2005年、京都迎賓館の庭園を棟梁として造成した。2007年、京都府文化賞功労賞、2012年、みどりの文化賞を受賞した。2020年、京都市文化功労者になる。晩年、御室桜・佐野桜など祖父の代から世話をしてきた名桜16種類の桜柄を描いた、手描き友禅黒地振り袖の制作に関わった。著『桜のいのち庭のこころ』など。97歳。
 造園業(株)植籐(うえとう)造園の会長。「桜守」として知られ、祖父・14代(藤太郎、1874-1934)に始まる桜の保存活動を引き継ぐ。金沢兼六園の「菊桜」、円山公園の「祇園しだれ桜」の保存、桂離宮、修学院離宮の整備も手掛けた。
◆六阿弥 時宗の住持は代々「阿弥」号を名乗った。その6塔頭すべてに「阿弥」が付けられていた。多蔵庵春阿弥、延寿庵連阿弥、花洛庵重阿弥、多福庵也阿弥、長寿院左阿弥、勝興庵正阿弥があり、「六阿弥」「円山の六坊」などと呼ばれた。なお、多蔵庵春阿弥の名庭園は、相阿弥(1472-1525)の作庭といわれる。
 江戸時代には、六阿弥それぞれが人々へ席を貸す「貸座敷」を営み、詩歌連俳・歌舞遊宴の名所地として知られた。
 近代に入ると也阿弥、連阿弥、重阿弥は合併し「也阿弥ホテル」として宿・料理屋を営む。外国人用宿として海外でも評判になった。その後、塔頭は境内の官収・火災などで消滅する。現在、円山公園内にある京料理の料亭「左阿弥」(1849-)は、かつての六塔頭のうちで唯一残存している。
◆円山公園 近代、1873年1月に政府は、太政官布告を出し、各地に公園を設けるように命じている。京都市では、1868年の神仏分離令後に取り壊された祇園感神院(現・八坂神社)の坊舎跡地、円山一帯の社寺境内地(祇園三院三坊寺領)、安養寺六坊旧地などを、1886年に公園地に指定した。同年12月25日に円山公園が開設されている。(「府告示」)。近くの円山(えんざん)安養寺(東山区)に因み「円山公園」と命名された。その後、1889年に京都市制施行に伴い、公園は京都市に移管されている。1914年に公園は完成した。
 庭園の作庭は、「植治」の7代・小川治兵衛(1860-1933)による。1913年から3年の歳月をかけて造られた庭園には、かつて琵琶湖疏水の水が引かれていた。さらに第二疏水の水も新たに引かれ、「せせらぎ」の流れを作っていた。現在は井戸水が利用されている。1931年に国の名勝に指定された。
 所在地は東山区円山町・祇園町・鷲尾町の3町、面積8万6641㎡。
◆桜 円山公園には、680本とも850本ともいう桜が植えられ、花見の名所としても知られている。
 江戸時代に、祇園社社務執行職・宝寿院の建内繁継(?-?)の屋敷庭に、枝垂桜(イトザクラ)が植えられていた。エドヒガンの枝が垂れ下がる品種だった。
 江戸時代後期、1866年に、宝寿院の失火により八坂神社・茶店なども焼け落ちる。桜は焼け残ったものの、その後、1873年に旧境内の払い下げを受け、桜も伐採され印鑑の材に用いられようとした。
 明石博高(1839-1910)はこのことを偶然に知り、桜木を買い取り守った。このため、「五両桜」の異名もあった。この桜が初代「祇園ノ枝垂桜」と呼ばれた。なお、明石は公園内で、「吉水(きっすい)温泉」(1873-)を経営し、舎密(せいみ)局にも関わっていた。1906年に京都初のホテル・也阿弥ホテル(1879-)の火災により、明石の吉水温泉も類焼している。この桜だけは再び残っている。なお、火災ではなく、寺の打ち壊しの際に桜だけが残ったともいう。
 その後、樹齢200年の先代の桜木は枯死した。現在の「祇園枝垂桜(イトザクラ)」は、2代目になる。近代、1928年に、16代・佐野藤右衛門(1928-2025)が誕生した年に、その父・15代・佐野藤右衛門(1900-1981)が桜の種を蒔いたという。現代、1979年に16代により現在の枝垂桜が移植された。エドヒガン桜の変種という。サクラの銘木として名高い。
◆山根子 「山根子(やまねこ、山猫)」は、下河原(八坂神社南門-庚申堂、鷲尾町、下河原町、月見町、上弁天町)に住んでいた芸妓をいう。東山・円山の山の根(麓)に集まっていたことから呼ばれたという。また、延暦寺の僧が使った「子」(妓の意)、「山の子」より転訛したともいう。
 北政所(高台院、1546-1624)とも関わりがあったとの伝承がある。安土・桃山時代、1599年旧9月に北政所は大坂城から京都の三本木に移った。その後、江戸時代前期、1605年旧6月に下河原に移る。徳川家康(1543-1616)の後押しを受け、1606年に、北政所は高台寺を建立した。北政所には白拍子の流れを汲む舞芸者らが追従していた。寺にも諸国の舞伎が出入りしたという。北政所は侍女に遊芸を学ばせている。1624年、北政所没後、高台寺の舞芸者は円山の六阿弥、双林寺、正法寺での市井の宴席で舞を披露し、纏頭(てんとう/はな、花代)を得ていた。後に芸妓らにより下河原遊郭も生まれた。
 幕末-近代(明治期中期?)以降も存在したという。「女伶(まひこ/まいこ)」とも呼ばれた。山根子は真葛踊りという総踊りを舞った。これが、近代、1872年の京都博覧会の際の附博覧(つけはくらん)で披露された祇園甲部の都踊りの先駆けになった。
 近代、1886年、府令により祇園町は下河原町を合併し、山根子の名も消滅する。
◆円山会議 江戸時代前期、1702年旧7月28日に、弁天堂前にあった六坊の一つで安養寺の塔頭だった「花洛庵重阿弥」で、赤穂浪士による密議(円山会議)が行われる。この時、仇討ちが決断されたという。
◆祇園小唄歌曲碑 「祇園小唄歌曲碑、譜面銅板」の碑が立つ。 
 「月はおぼろに東山 霞む夜毎のかがり火に 夢もいざよう紅桜 しのぶ思いを振袖に 祇園恋しや だらりの帯よ」の祇園小唄は、マキノ映画の「絵日傘」(1930)の主題歌として大流行した。
 作詞は小説家・作詞家・長田幹彦(1887-1964)、作曲は作曲家・佐々紅華(さっさ-こうか、1886-1961)による。
 4世・井上八千代(1905-2004)が曲に振り付けしたことから、祇園の芸舞妓による代表的な舞踏の一つになった。
 碑は、1961年に「吉うた」の2代目女将・お龍の長年の呼びかけにより、祇園甲部をはじめとする各界の協力により建立された。
◆ラジオ塔 ラジオ塔が建てられている。近代、1932年に、NHK京都放送局開局の際に、ラジオの普及のために建てられた。当時は、ラジオ体操・野球中継も流された。
◆花暦 桜、杜若、藤、菖蒲、紅葉、梅。
◆文学 ◈与謝野晶子(1878-1942)には「清水へ祇園をよぎる桜月夜今宵あふ人みな美しき」の歌がある。
 ◈川端康成(1899-1972)『古都』『虹いくたび』、林芙美子(1903-1951)『放浪記』にも登場する。
 ◈夏目漱石(1867-1916)は、学生時代に親友・正岡子規(1867-1902)と京都を訪れ、円山公園付近を散策した。(『京に着ける夕べ』、1907年)
◆アニメ アニメーション『七人のナナ』(原作・監督・今川泰宏、制作・A・C・G・T、2002年1月-6月、全25話)の舞台になった。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 『京都大事典』、『おおきに。』、『京の文化と藝術-立命館大学文化講座 京都に学ぶ 8』、『あさひらいふ京都 2018年5月』、『京都の歴史10 年表・事典』、『明治文化と明石博高翁』、「朝日新聞 2026年2月24日」、ウェブサイト第2章 名勝円山公園の成り立ちと現況 - 京都市」、ウェブサイト「京都新聞 2025年12月9日」、ウェブサイト「名勝円山公園の開設から継承の歴史」、ウェブサイト「レファレンス協同データベース」、ウェブサイト「コトバンク」


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円山公園 〒605-0071 京都市東山区円山町 
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