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手島堵庵五楽舎址 (京都市中京区) Site of Goraku-sha(private school),Tejima,Toan |
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手島堵庵五楽舎址 | 手島堵庵五楽舎址 |
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![]() 「手島堵庵五楽舎址」の石標 ![]() |
富小路通六角上ル西側に、「手島堵庵五楽舎址(てじま-とあん-ごらくしゃあと)」の石標が立てられている。 手島堵庵は、江戸時代中期の石門心学者であり、この地の講舎「五楽舎(ごらくしゃ)」で門弟の育成を行った。 ◆歴史年表 江戸時代中期、1762年、/1752年、手島堵庵の長男・和庵が家督を継ぐ。 1761年、旧9月、家業退隠し、本格的に町人教化始める。(「手島堵庵年譜」) 1765年、堵庵は隠居後の書斎を現在地(富小路通六角上ル朝倉町)に営む。講舎「五楽舎」を開き、門弟の育成、心学の普及をした。(『手島堵庵先生事績』) 1773年、「修正舎」(五条東洞院)を新設する。(「明倫舎文書」) 1782年、春、「明倫舎」(河原町三条)が開設される。(「明倫舎文書」) 1797年、この頃、社中140余人を数えた。(「明倫舎文書」) 近代、1917年、京都市教育会により石標が立てられた。 ◆手島 堵庵 江戸時代中期の石門心学者・手島 堵庵(てしま/てじま-とあん、1718-1786)。男性。名は信、喬房(たかふさ)、通称は近江屋源右衛門、嘉左衛門。京都の生まれ。父・商人・上河宗義。18歳で石門心学の祖・石田梅岩の門に入る。20歳で後継者になり、「心学二世」と呼ばれる。1744年、師の没後、華頂山麓に居を移した。門下の組織的改革、教化法の改善を進める。1762年(1752年とも)、家督を長子・和庵(かあん)に譲り、心学の布教、統制に専念した。1765年、堵庵は隠居後の書斎を富小路通六角上ル朝倉町に営む。講舎「五楽舎」を開き、門弟の育成、心学の普及をした。1782年、講舎「明倫舎(めいりんしゃ)」を建て2世舎主になった。子ども、女性向けに心学道話を説く。後に「時習舎(じしゅうしゃ)」(西陣)、1773年、独立した講義施設の「脩正舎(しゅうせいしゃ)」(河原町三条)も創設した。京都所司代・松平信順、仁和寺宮済仁入道親王、土御門晴親らが聴講した。大黒屋三郎兵衛家らが支援した。著に『知心弁疑』など。門弟に中沢道二、上河淇水、布施松翁、脇坂義堂らがいる。 没後、数千人の会葬者があり、華頂山麓の邸宅より黒谷まで道を埋め尽くしたという。69歳。 墓は鳥辺山墓地( 延年寺旧跡墓地)(東山区)にある。 ◆手島 和庵 江戸時代中期-後期の心学者・手島 和庵(てしま/てじま-わあん、1747-1791)。詳細不明。男性。父・手島堵庵。1762年、家督を継いだ。「五楽舎」、「明倫舎」の舎主を務めた。指導者として組織化し、心学教化活動を支えた。44歳。 ◆石門心学 石門心学は、創始者・石田梅岩(うめだ-ばいがん、1685-1744)に始まる。陽明学を心学ということから、梅岩門流の「石門」を入れ、「石門心学」と呼ばれた。 神道・儒教・仏教に基づく道徳を基本にしており、人の道義を庶民に説いた。江戸時代後期に大流行し、全国に広まる。脩正、時宗、明倫の三舎が全国の心学講社の総本山格になる。 心学講舎は、社中と呼ばれ、都講(教師)が町民に教化した。講話は定例日に行われていた。江戸時代後期、1850年の大飢饉では救援活動を行い、市中に10地区に7舎が粥施行を行う。 ❊原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 ❊参考文献・資料 『京都大事典』、『京都の歴史10 年表・事典』、ウェブサイト「京都市 京都のいしぶみデータベース」、ウェブサイト「玉川大学教育博物館」、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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