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東本願寺伏見別院 (京都市伏見区) Higashihongan-ji fushimibetsuin Temple |
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東本願寺伏見別院 | 東本願寺伏見別院 |
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![]() ![]() 「教如上人御旧跡 伏見御坊」の石標 ![]() 「会津藩駐屯地跡(伏見御堂)」の石標 |
伏見の大阪町(おおさかまち)に東本願寺伏見別院(ひがしほんがんじ ふしみべついん)はある。山門脇に「教如上人御旧跡 伏見御坊」、「会津藩駐屯地跡(伏見御堂)」の石標が立てられている。 「伏見御坊(ふしみごぼう)」、「蓮池御坊(れんち ごぼう)」、「双葉御堂(ふたば みどう)」とも呼ばれた。 真宗大谷派、本尊は阿弥陀如来。 ◆歴史年表 年代不詳、かつてこの地には、禅宗の即現寺(そくげんじ)があった。その後、廃寺になる。 室町時代、1602年、本願寺12世・教如が、徳川家康より寺地(即現寺の旧地)を与えられる。 安土・桃山時代-江戸時代、慶長年間(1596-1614)/1603年/1600年、教如は家康の援助を受けて創建した。(『京都府紀伊郡誌』『拾遺都名所図会』)。家康の居城・向島城の第邸が移され、当初は東向きに建てられる。このため、境内の東側に現在も「御堂前町」の地名が残る。教如は当寺を拠点にした。向島城の家康に働きかけ、本願寺(西本願寺)からの東本願寺分派独立に運ぶ。東六条(七条烏丸)の広大な寺域を得る。 江戸時代、17世・真如(1682-1744)により現在の建物が再建された。 1868年、1月2日、鳥羽・伏見の戦いの前日、当寺は上洛した幕軍・会津藩支隊(200人)の宿泊所になる。1月3日夕方、戦闘が始まる。付近の南浜は激戦地になった。鉄砲の打ち合いがあり、会津藩は本堂の畳を楯にして防戦したという。当寺の戦火は免れるが、本堂は大きな損傷を受けた。 近代、一時、新政府の伏見市中取締役所が置かれた。 1885年、旧本堂は南向に縮小され建替えられる。 現代、1990年、旧本堂は解体され、仮本堂が建てられた。 2011年より、本堂・庫裏の老朽化に伴い再建が始まる。 2014年、新本堂の落慶法要、教如上人400回忌法要が修された。 ◆教如 室町時代後期-江戸時代前期の真宗の僧・教如(きょうにょ、1558-1614)。摂津国(大阪府)大坂に生まれる。本願寺顕如と如春尼の子。本願寺12世。1570年以来の織田信長との石山合戦末期に父を補佐する。1580年、信長との和議により父は本願寺を退去した。教如は、和議に不服として籠城を続けた。父に義絶され、東西分裂の遠因になる。1592年、父の死去により本願寺12世を継職する。だが、1593年、豊臣秀吉の命により隠居させられ、弟・准如に跡を譲った。徳川家康に庇護され、1598年、家康により東六条に寺地寄進を受け東本願寺を別立した。82歳。 ◆真如 江戸時代前期-中期の浄土真宗の僧・真如(1682-1744)。15世・常如の長男。1700年、17代法主になる。大谷祖廟、難波御堂などを再建している。62歳。 ◆安藤定次 室町時代後期-安土・桃山時代の武将・安藤定次(あんどう-さだつぐ、1540-1600)。次右衛門。徳川家康、後にその子・信康に仕える。1579年、信康没後、石川数正、内藤弥次右衛門に仕えた。1600年、関ケ原の戦い前に、伏見城で西軍の攻撃により討死した。61歳。 墓は東本願寺伏見別院(伏見区)にある。 ◆安藤次行 江戸時代前期-中期の武将・安藤次行(1697-1712)。安藤定次の子孫。駿河守、京都東町奉行・伏見奉行。15歳。 墓は東本願寺伏見別院(伏見区)にある。 ◆仏像 本堂安置の阿弥陀仏は、飛鳥時代、聖徳太子(574 -622)作ともいう。像高4尺(1.2m)。(『拾遺都名所図会』) ◆建築 創建時の建物としては山門、鐘楼がある。2014年に新本堂・庫裡が再建された。 「旧本堂」は慶長年間(1596-1614)に、向島城の殿舎遺構を移築し改築した。徳川家康(1543-1616)の居城だった。当初は東向きに建てられていた。江戸時代末、1868年、鳥羽・伏見の戦いで損傷を受け、1885年に南向に縮小し建替えられる。1990年に老朽化のために解体されている。 ◆蓮池御坊 伏見別院は、「蓮池御坊」とも称された。寺の建立の際に蓮池を埋め立てたためともいう。(『京都府紀伊郡誌』)。寺に蓮池があったためともいう。(寺伝) 「二葉御堂(ふたば みどう)」とも呼ばれた。池中に双葉の蓮花が咲いたことによるともいう。(寺伝) ◆鳥羽・伏見の戦い 鳥羽・伏見の戦いは、明治新政府と旧幕府との間の武力衝突であり、戊辰戦争最初の内乱だった。 1868年正月、慶喜の本営・大坂城に布陣した旧幕府軍(幕兵、会津・桑名藩兵)は、京都に向けて進軍開始する。他方、伏見の旧幕府軍、新撰組は伏見奉行所に布陣した。 1月2日夕刻に、会津藩の先鋒隊200人は大坂から船で伏見京橋に上陸し伏見奉行所に入る。先鋒隊は東本願寺伏見別院(伏見御堂)を宿陣にした。薩摩軍は御香宮に陣を敷いた。 3日(新暦1月27日)、旧幕府軍本隊は淀川を遡り、その先鋒隊は鳥羽街道、伏見街道の二手より京都に軍を進める。他方、薩長軍は竹田より小枝橋に兵を進めた。夕刻、小枝橋で橋を渡ろうとした旧幕府軍を薩摩軍が制止し、睨み合いになる。城南宮の西にある秋の山付近で、旧幕府軍と新政府軍(薩摩藩・長州藩・土佐藩・安芸藩)との緒戦になる。その後、小枝橋、中島、富ノ森、淀の町などでも戦闘が展開された。 伏見御堂付近では、会津藩先鋒隊と薩摩藩との間で小競り合いがあり、その後、伏見の町でも戦いが始まった。本堂の畳を楯に鉄砲の撃ち合いがあり、御堂の建物にも大きな損害が出たという。 ◆四ツ辻の四つ当たり 門前周辺の通りは直角に折れ曲がり、「食違い虎口(こぐち)」様に、2度突き当たる。 城下町の大阪町(大坂町)、門前付近には「四ツ辻の四つ当たり」と呼ばれる複雑な地割が見られる。東西南北行すべてが直行できずに突き当たる。この町だけに見られ、何らかの軍事的な防御の意味があるともいわれている。 1.新大黒町(瀬戸物町)より御堂前町を経て南行すると大阪町の中心で突き当たる。2.魚屋町より西行すると上油掛町と大阪町の境界に突き当たる。3.木材木町より上油掛町を経て北行すると魚屋町からの西行路に突き当たる。4.阿波橋通を東行すると上油掛町を経て大阪町で突き当たる。 ◆墓 武将・安藤定次、その子孫・駿河守・安藤次行(京都東町奉行・伏見奉行)の墓がある。 ◆樹木 大銀杏樹がある。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 案内板、『昭和京都名所図会 4 洛西』『京都市の地名』『京都大事典』、ウェブサイト「真宗大谷派京都教区-別院紹介」 、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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