
地下線坑口、西院駅南西

扁額「天人併其功」、地下線坑口

鷲のブロンズ像、地下線坑口

地下線坑口

地下線坑口

地上部の門柱、地下線坑口

西院駅

西院駅

支柱、西院駅

支柱、西院駅

西院駅構内

西院駅構内

西院駅

大宮駅構内、至西院駅方面

大宮駅構内

大宮駅構内 |
かつての新京阪鉄道(現・阪急電鉄)の西院・大宮間地下線(さいいん・おおみや-かん-ちかせん)(現・阪急電鉄京都本線の一部)は、関西初の地下鉄道として完成し開業した。
◆歴史年表 近代、1928年、6月、新京阪鉄道は、地下鉄工事を着工した。
1930年、9月、京阪電気鉄道は、新京阪鉄道を合併し、新京阪線(天神橋-西院駅)とした。地下鉄坑口には当時の社長・太田光熈の扁額が掲げられる。
1931年、3月31日、京阪電気鉄道は、旧新京阪線(西院-京阪京都[現・大宮] 駅)で延伸開業している。関西初の地下鉄になる。
1943年、10月1日 、阪神急行電鉄が京阪電気鉄道を合併する。京阪神急行電鉄株式会社に改名し、新京阪線は統合される。
現代、1949年、12月1日、再分割により阪急電鉄京都本線になった。
1963年、6月17日、阪急電鉄京都本線(大宮-河原町[現・京都河原町])間が開業になった。
◆松島 寛三郎 近現代の鉄道技術者・鉄道官僚・松島 寛三郎(まつしま-ひろさぶろう、1875 -1956)。男性。広島県の生まれ。13歳で同志社中学(現同志社中学校・高等学校)に入学する。東京第一高等中学校を経て、1897年、東京帝国大学に合格する。同年、新設の京都帝国大学理工科大学科一期生として移る。1900年、京都帝大学を卒業し、山陽鉄道(国鉄神戸-下関間)/関西鉄道に入社した。1905年、工務課長、1906年、国有化後は鉄道作業局湊町保線事務所長、その後、北海道鉄道管理局工務課長、名古屋鉄道管理局工務課長等を歴任した。1920年、鉄道官僚・長谷川謹介に請われ、東海道電気鉄道(現・名古屋鉄道)に入る。岡崎-豊橋間の新線(豊橋延長線)の建設計画に関わる。1922年、新京阪鉄道の設立に参加し、取締役技師長兼支配人になる。社長・太田光熈(みつひろ)のもと、新京阪建設経営を進める。1930年、親会社・京阪電気鉄道との合併後、常務取締役を務めた。1934年、土木学会関西支部長になる。1940年、同社を退職した。81歳。
関西最初の地下鉄を京都市内に新設した。国内第一といわれた豪華高速線を完成させる。同志社・大阪医科大学などの理事を歴任した。第一高まで野球部に所属し、同志社中学野球部コーチに就く。
◆太田 光凞 近代の実業家・太田 光凞(おおた-みつひろ、1874-1939) 。男性。山口県の生まれ。父・長州藩士・大庭景明 。1898年、東京帝国大学法科大学法英科を卒業後、鉄道省に入省した。1907年、京阪電気鉄道に入社し、庶務課長に就任する。1910年、取締役就任、1911年、常務取締役、1918年、伊勢電気鉄道社長、1925年、京阪電気鉄道社長を歴任する。同年、阪和電気鉄道の取締役に選任される。1929年、五私鉄疑獄事件で検挙・収監され、不起訴になった。1936年、京阪電気会長に就任する。1939年、相談役に退く。
三重合同電気(合同電気、後・東邦電力)、大同電力(旧・大阪送電)などの社長・副社長などを歴任した。
◆地下鉄道工事 近代、1922年に鉄道技師・松島寛三郎は、新京阪鉄道に移籍した。技師長として西院-四条大宮間(2.5km)の地下線建設を指揮した。京都市内中心部での市街化が進行しており、鉄道の地上・高架線の利用も困難だった。このため、関西初の地下鉄道の建設になる。
1928年6月に地下鉄工事が着工される。初期の地下鉄工事では、工事費削減のため、トンネル断面積を最小限にした。小型の鉄道車両の乗り入れが可能で、パンタグラフ不要な第三軌条式により電力供給していた。このため、走行用レールとは別に並行して、第3の給電用レールを敷設し集電していた。
新京阪鉄道は、開削工法により鉄筋コンクリート構造であり、一部に鋼鉄製の中柱が建てられた。架空電車線方式を採用したため、車両が通る空間上部に架線を張り、パンタグラフによる集電が可能になった。トンネルの断面積は、第三軌条式に比べて1割程度拡がったに過ぎなかった。現在主流の大型の電車列車をそのまま地下鉄に乗り入れることが可能になった。内空断面は複線矩形断面であり、縦5.5m-5.8m、横8.2m-8.5mだった。
1931年3月31日に、京阪電気鉄道が新京阪線(西院-京阪京都[現・大宮] )で開業している。地下駅は京都西院駅、京阪京都駅(現・大宮駅)が設けられた。関西初の地下鉄道・地下鉄駅になった。
◆新京阪鉄道 新京阪鉄道設立の前後に、在阪の複数の民間鉄道会社が関連している。
近代、1906年に、「京阪電気鉄道」は大阪市に設立された。1910年に天満橋-淀屋橋間が開通している。1915年までに京都三条までに延伸された。
1922年6月に、子会社の「新京阪鉄道」が設立される。1928年に京都西院仮駅までが開業する。京阪電気鉄道の京阪本線に対するバイパス路線として計画された。1930年には、新京阪線(大阪天神橋筋6丁目-京都四条大宮)が開通する。新京阪は高規格鉄道線であり、本線の線路は1,435mm標準軌で、レールはアメリカ合衆国製の50kg/m相当の重軌条が採用された。その後、新京阪鉄道は京阪電気鉄道に吸収合併されている。1931年に京都地下線(西院-京阪京都(現・大宮)が開業した。
1943年、戦時統制で新京阪鉄道と阪急電鉄は合併し、「京阪神急行電気鉄道」になる。
現代、1949年に阪急電鉄が、戦後分離する際に旧・新京阪線を取得し、「阪急電鉄京都本線(京都線)」になった。
◆扁額 西院駅の南西に開いている地下線坑口には、京阪電鉄社長・太田光凞の扁額「天人併其功」が掲げられている。その下に、翼を広げた鷲のブロンズ像がある。
かつては、梟像もあったという。
◆日本初の地下鉄道・駅 ◈近代、1920年10月に、東京地下鉄道株式会社(東京市)が設立されている。社長・中島久万吉(1873- 1960)、「地下鉄の父」と呼ばれた実業家・早川徳次(1881-1942)による。
1925年9月に東京地下鉄(現・東京メトロ)の銀座線(浅草-新橋駅)間が建設された。1927年12月に開業している。
日本初・アジア初の地下鉄路線だったという。
◈近代、1922年9月に、宮城電気鉄道(仙台市)が設立された。社長・山本豊次(?-?)だった。
1925年6月には、仙台-西塩釜駅間が開業する。仙台駅地下ホーム(通称は宮電仙台)は、省線(鉄道省・運輸省の管理)の東北本線との交差のため地下駅として建設された。起終点の仙台駅に至る300mほどは地下路線になっていた。その後の延伸計画は断念されたという。
この地下路線が日本初の地下鉄駅だったとも、地下鉄道だったともいう。
◆P-6形電車 近代、1927年に新京阪鉄道の「P-6形」電車は登場している。正式な形式名は「デイ100(制御車・付随車はフイ500)」だった。"P"は"Passenger-Car"の部内呼称略であり、その後、合併により京阪神急行電鉄「100形(100系)」になり、一部車両改造が行われている。
P-6形は、日本初の本格的な長距離電車とされた。当初は名古屋までの延伸計画もあったという。最高速度120km/hであり、高性能高速運転の電車として「東洋一の電車」とも呼ばれた。
1928年に、新京阪鉄道の新京阪鉄道線が開業し、試運転時に天神橋(現・天神橋筋六丁目)-西院間27分(41km、表定速度91.1km/h)で、当時としては日本最速で運行した。1930年の営業運転時では天神橋-京阪京都(現・大宮)間を34分(42.4km、表定速度74.8km/h)だった。1931年に、京阪京都駅までの延伸開業でも34分(全長42.4km、73.7km/h)を維持していた。
P-6形の車内設備は、ロングシート・転換式クロスシートが設置され、防寒防音のため側窓は二重窓を採用していた。当時としては極めて珍しい自動ドア、次停車駅を表示する装置も備えられていた。貴賓車「フキ500」は、1928年の第124代・昭和天皇の京都御所での御大典に合わせ、中間付随車として製造された。
1973年にP-6形の後継100形は引退している。
バッファー付きの連結幌、主電動機出力150kw、車体長19m、重量50t。製造車両全73両(含、貴賓車)。
❊年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
❊参考文献・資料 『関西鉄道遺産』、ウェブサイト「故名誉員 松島寛三郎君略歴-土木学会」、ウェブサイト「宮城電気鉄道・JR 仙石線の歴史と地域的課題」、『京都大事典』、「燕を追い抜く新京阪-乗り物ニュース」、ウェブサイト「コトバンク」、
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