|
|
同志社ハリス理化学館 (京都市上京区) Harris Science Hall,Doshisha University |
|
同志社ハリス理化学館 | 同志社ハリス理化学館 |
![]() ![]() |
![]() ![]() |
![]() 南東側 ![]() 南側、正面玄関 ![]() ![]() 南側、正面玄関 ![]() ![]() 南側 ![]() 南側 ![]() 南側 ![]() 南側 ![]() ![]() 南側 ![]() 南側 ![]() 南東端 ![]() 南側西端 ![]() 北側 ![]() 北側 ![]() 北側 ![]() 北側 ![]() 北側 ![]() 西側 |
同志社大学今出川キャンパス内にハリス理化学館(はりす-りかがくかん)はある。新島襄と弟子・下村孝太郎の構想により、アメリカ合衆国の実業家・ハリスの寄付を基に、同志社での高等な理科教育機関設立のために建てられた。 近代のイギリスの建築家・ハンセルの設計による。 ◆歴史年表 近代、1890年、ハリス(波理須)理化学校(理工学部の前身)の校舎として竣工した。 1891年、10月、濃尾地震で天文台が破損し、天文台は撤去された。 1896年、ハリス理化学校は廃止される。 現代、1960年、棟札が発見された。 1976年-1977年、外壁保存工事により、内部壁面が鉄筋コンクリートに補強された。 1979年、5月、重要文化財に指定される。 2013年、11月より、「ハリス理化学館同志社ギャラリー」として一部が一般公開されている。 ◆ハンセル 近代のイギリスの建築家・アレクサンダー・ネルソン・ハンセル(Alexander Nelson Hanse,1857-1940)。男性。フランスノルマンディー地方カーンに生まれ。父は牧師・ペーター・ハンセル。父がサマセット教区長に任じられ、父とともにイギリスへ渡る。ウィンチェスターへ移り建築の修業を積む。1888年、日本へ渡り、川口居留地の神学校で英語教師を務めた。1890年、同志社理化学館は日本初の設計になった。同年、神戸外国人居留地で社交クラブユニオンのクラブハウスを設計した。1891年、英国王立建築家協会正会員の資格を獲得する。 第一次世界大戦(1914-1918)で一人息子の戦死後、1920年、中国漢口、モナコへ移り没した。弟子に横山栄吉がいる。83歳。 主な作品は初代神戸倶楽部(1890) 、同志社ハリス理化学館(1890)(重文)、デラカンプ商会(1893)、平安女学院明治館(登録有形文化財)(1895)、門兆鴻邸(旧A.P.ディスレッセン邸)(1895)、シュウエケ邸(旧ハンセル自邸)(1896)、クラブ・コンコルディア(1896)、ドイツ総領事館(1901)、香港上海銀行(1902)、ジャーデン・マセソン商会(旧グッゲンハイム邸)(1912)など。 ◆ハリス 近代のアメリカ合衆国の実業家・ハリス(J.N.Harris,1815-1896)。男性。アメリカ合衆国コネチカット州セイラム市の生まれ。農民の父、13人兄弟の長男。1832年、ハンブルグの雑貨店店員になる。1836年、ニューイングランドの雑貨店店員になる。1838年、雑貨商として独立した。1844年、Harris & Brown社を設立する。1848年、独立し農具・農機具、鉄・鋼鉄輸入業を拡大する。製薬会社J. N. Harris & Co.をオハイオ州シンシナティ市に設立した。1852年、ニューロンドン市のYMCAの設立に努力した。1853年、社名Harris, Ames & Co.と名乗る。1855年、コネティカット州の議員になった。1856年-1862年、ニューロンドン市市長になる。1857年、Harris, Williams & Co.と改称する。1862年、石炭採掘業のHill & Harris Coal Minesを、ペンシルバニア州マホニー市に設立する。1864年、ニューロンドン選出の上院議員を務めた。1865年、New London City Bank頭取を20年以上勤め、同市銀行協会の理事になった。1893年、Mount Hermon School校長を務める。 カナダ・モントリオールにFellowes Medical Manufacturing Co.設立発起人、社長、ガス会社社長などを歴任する。石炭採掘業、鉄道会社、船舶業などを手掛けた。アメリカン・ボード理事であり、ハリス病院(後のローレンス・メモリアル病院)を創設し市民に開放した。福音主義者Dwight L. Moodyの支持者で、Mount Hermon School, Northfield Seminaryの設立に協力した。ニューロンドンのSecond Congregational Churchの役員であり寄付などもしていた。米国での新島襄の養父・A. Hardyは知人であり、アメリカン・ボードから同志社に宣教師として派遣されたD.W.Learnedは同じ教会員だった。81歳。 ◆建築 ハリス理化学館は、近代、1890年にハリス理化学校(理工学部の前身)の校舎として竣工した。新島襄、弟子・下村孝太郎が構想した。新島に共鳴したアメリカ合衆国の実業家・ハリスが10万ドルの基金を拠出した。寄付金は、高等な理科教育機関設立のために充てられた。1979年5月に重要文化財に指定される。2013年11月より、新島襄を資料で紹介する、「ハリス理化学館同志社ギャラリー」として一部一般公開されている。 南面している。建物は2階建の主要部、東北隅の平屋建実験室から成る。当初は実験室北に平屋建の実験室があった。外観基調は、イギリス・ゴシック、イギリスのクイーン・アン・リバイバル様式(アンヌ・クーン[1702-1714]統治時代のイギリスバロック様式、19世紀最後の四半期、20世紀初頭の復興型)を取り入れた意匠になる。切妻造のゲーブル(三角)破風が前後に3カ所ずつ配されている。イギリス積の赤煉瓦壁体に、基礎、開口、切妻部分に花崗岩で白帯を入れる。窓は矩形窓で2連・3連の上下窓になる。 平面はH字型であり、中央部は前後(南北)にやや突出する。南正面は対称形であり、左右に妻部分を見せる。中央に車寄がある。 建築当初は、屋根中央部北寄に八角形平面の天文台が設けられていた。1891年10月の濃尾地震で破損したため天文台は撤去された。この時、背面北流れの屋根にあった煉瓦造煙突も撤去される。1976年-1977年に、外壁保存工事により内部壁面が鉄筋コンクリート(RC)造に耐震補強壁になる。間取りも大幅改造されている。内装の文化財指定は階段のみになる。 施工は小島佐兵衛、煉瓦造2階建、東北隅実験室付、桟瓦葺(階段以外の内装を除く)、建築面積587.0㎡。 ◆理化学館・工学部 近代、1890年 1月23日に新島襄は亡くなる。7月に今出川校地に「ハリス理化学館」が竣工し、9月に開校した。工学部の前身であり、その中心施設になる。1896年に廃止されている。 1944年 4月に、「工業専門学校(電気通信科・機械科・化学工業科)」が開校した。1949年4月に、大学工学部(電気学科、機械学科、工業化学科)が設置されている。1959年4月に、「理工学研究所」が設立される。 1994年3月に京田辺(田辺)校地に、ハリス理化学館の理念を継ぐ「田辺校地理化学館」が竣工する。工学部棟も竣工し、4月より理工学研究所、工学部の移転が行われる。以後、京田辺は理工学部・理工学研究科の拠点施設になる。2008年には、工学部が改組・再編され、10学科の理工学部になる。 2015年4月に、理工学研究所は、改組され「ハリス理化学研究所」に改名された。理系2学部・3研究科との協力体制に移行した。 ❊原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 ❊参考文献・資料 ウェブサイト「同志社大学」、『京都の赤レンガ』、『京都の洋館』、ウェブサイト「文化財データベース-文化庁」、ウェブサイト「J.N.Harrisのメッセージ : J.N.Harrisの手紙から-同志社大学学術リポジトリ」、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
![]() |
|
![]() ![]() ![]() |
![]() ![]() ![]() |
![]() |
|