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京都タワー (京都市下京区) Kyoto Tower |
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京都タワー | 京都タワー |
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![]() 京都タワー、京都タワービル、南東角 ![]() 南東角 ![]() 北側 ![]() ![]() 北側 ![]() 南東側 ![]() 南東側、塔体(塔身) ![]() 南東側 ![]() 南東側、展望室 ![]() 東側、展望室 ![]() 南東側、タワーの先端部分 ![]() 南東側、京都タワービル屋上の塔屋 ![]() ![]() ![]() ![]() 南東側、京都タワービル ![]() 【参照】京都タワービルの下 ![]() 【参照】京都駅ビル ![]() 【参照】京都駅ビル |
JR京都駅の北側烏丸口に、京都タワー(きょうと-たわー)が聳える。時を経て京都タワーは京都のランドマークとして親しまれている。 設計は近現代の建築家・山田守、構造設計は近現代の建築学者・棚橋諒らによる。 ◆歴史年表 現代、1953年、現在地にあった京都中央郵便局の移転が決定した。京都財界の有志により企画経営の「株式会社京都産業観光センター」が設立される。 1963年、2月、京都中央郵便局跡地に、京都タワー工事が着工される。6月、「京都を愛する会」は、京都産業観光センターに対しタワーの撤去勧告を行う。 1964年、12月25日、竣工式が行われる。(「京都新聞」)。12月28日、開業する。 2013年、開業50周年(2014)に向けエレベーター改修工事、外壁の塗り直し工事を行う。 ◆山田 守 近現代の建築家・山田 守(やまだ-まもる、1894-1966)。男性。岐阜県の生まれ。上中島小学校、岐阜県立大垣中学校、第四高等学校を経て、1917年、東京帝国大学建築学科に入学した。1920年、同窓の堀口捨己(すてみ)、石本喜久治ら5人で「分離派建築会」を結成した。大学卒業後、逓信省経理局営繕課に入る。以来、電信局・電話局(逓信建築)の設計を行った。1923年、関東大震災後に設けられた復興院(後の復興局)橋梁課の嘱託になる。橋などの意匠に携わる。1929年-1930年、逓信省の命によりヨーロッパを視察旅行した。ベルリン、トルコ、イタリア、南ドイツ、フランス・パリ、イギリス・ロンドン、オランダ、アメリカ合衆国に滞在した。第2回CIAM(近代建築国際会議)に参加する。スイス、ドイツのジードルンク(集合住宅群)、逓信関係、老人ホームなど見学した。ル・コルビュジェ、ヴァルター・グロピウス、エーリヒ・メンデルゾーンらを訪ねた。1933年、旧東京逓信病院で逓信協会賞を受賞した。1944年、 勲三等瑞宝章を受賞した。1945年、逓信省退官する。1946年、「通信建設工業」を開設し独立した。1949年、「山田守建築事務所」を設立する。1951年、東海大学の設立に理事として関わり、工学部建設工学科主任教授になる。1953年、旧東京厚生年金病院で芸術選奨(文部大臣賞)を受賞した。1954年、旧大阪厚生年金病院で日本建築学会賞作品賞を受賞した。1962年、大阪事務所を開設、1963年、福岡事務所を開設した。1964年、藍綬褒章、勲三等朝日中綬章を受賞した。72歳。 モダニズム建築を実践し、曲面・曲線、パラボラ型アーチなどの意匠を好んで用いた。主な作品は東京中央電話局牛込分局(1922、現存せず) 、代表作のパラボラ型アーチ意匠の東京中央電信局(1925、現存せず)、東京・永代橋(1926、重文) 、聖橋(1927)、同潤会の青山アパート(1927)、東京・旧千住郵便局電話事務室(1929) 、新潟・萬代橋 (1929、重文) 、荻窪郵便局電話事務室(1932)、旧広島逓信診療所(1935) 、旧熊本貯金支局(1936、現存せず) 、代表作の旧東京逓信病院(1937) 、東京逓信病院(1938)、東京厚生年金病院(1953)、旧熊本逓信病院中棟・西棟(1955、現存せず)、川崎・長沢浄水場(1957) 、社会保険横浜中央病院 (1960)、旧高松逓信病院(1962) 、東海大学関連施設(1962-1966)、東京・日本武道館(1964) 、京都タワービル (1964)など。 ◆棚橋 諒 近現代の建築学者・棚橋 諒(たなはし-りょう、1907-1974)。男性。静岡県の生まれ。1929年、京都帝国大学建築学科を卒業した。1936年、工学博士号を取得する、外務省勤務、神戸高工講師を経て、1951年、京都大学工学部教授、1959年、同防災研究所長を兼務した。1963年-1964年、日本建築学会会長を務める。 鉄骨構造学の権威であり、超高層建築の構造理論を支える柔構造の理論を展開した。作品として、東畑謙三と共同設計した京都大学人文科学研究所がある。 ◆金多 潔 近現代の鉄骨構造学者・金多 潔(かねた-きよし、1930-)。男性。1953年、京都大学工学部建築学科を卒業した。1959年、米国スタンフォード大学大学院を終了した。同年、京都大学防災研究所助教授、1964年、同工学部助教授を経て、1965年より、京都大学工学部教授に就任する。1994年、定年退職する。京都大学名誉教授、工学博士。 専門は鉄骨構造学、主に超高層建築物を含む建築鋼構造に関する研究、鉄骨製作工場の性能評価、歴史的建造物の構造補強などを手掛けた 。 ◆建築 ◈京都タワーの設計は山田守(山田守建築事務所)、構造設計は京都大学工学部棚橋築学教室(棚橋諒、金多潔)による。現代、1963年2月に工事着工し、1964年12月25日に竣工した。当初予定された1964年10月開催の東京オリンピックには間に合わなかった。 30の計画案から選ばれたのは、鉄骨を剥き出しにしない曲線美の極致とされた現行案だった。京都タワーは、「海のない京都の街を照らす灯台」(棚橋)、「蝋燭」(山田)をイメージしたともいう。彩色はモノライトレッド、ミルキーホワイトの2色の配色になっている。ミルキーホワイトは、当時の新幹線0系(1964-2008)の車両色と同色であり、京都タワーは当時の最新技術だった新交通システムと連動していた。 京都タワーを一つの架構(柱と梁の構造物)とするモノコック構造(応力外皮構造)が採用された。京都タワーの塔体(塔身)のような大規模塔状構築物では日本初の試みだった。鉄骨の骨組はないため、円筒形の塔体という外殻部材全体で、荷重を受け全体を支えている。このため、構造体がそのまま外観意匠になっている。曲面、曲線、円、楕円の美を活用している。この構造体は、飛行機・鉄道・船・自動車などにも採用されている。外骨格生物のカニ・エビなどの甲殻類、カブトムシなどの昆虫にも見られる。 部材には特殊鋼板シリンダー(厚さ12mm-22mm)が用いられた。下部ほど厚みを増している。鉄板を成型した中空の円筒シリンダーで、一般の建築物がもつ設計安全率の2倍以上の数値を想定されている。耐えられる風速 90m/秒という。 塔体上部の展望室(4階・5階、地上100m)は、赤色で塗られている。下部三層、上部二層からになり、下の塔体から張り出し放射線状の楕円形フレームになっている。片持ち梁形式の梁が床を支える。放物線のパラボリック部材が、3鉸アーチとして床全体の剛性を増している。当初は、展望室に曲面ガラスが張られていた。その後、眺望が歪むとされ垂直平面ガラスに変更になった。 施工は大林組、モノコック構造(応力外皮構造)、タワーの高さ地上100m (タワービルを含むと131m)、タワーの総重量800t、展望室の収容人員400人。 2013年にエレベーター改修工事、外壁の塗り直し工事が実施された。 ◈展望室より上部には航空障害灯、風向計(地上120m)、風速計(地上120m)、避雷針などが設置されている。展望室付近にはライブカメラ、大気汚染測定装置(地上97.4m)などが設置されている。 ◈京都タワービルは、当初は地上4・5階の計画であり、その後変更された。ビル屋上にあるお椀状の塔屋のさらに下部全体が、京都タワーの土台になっている。このような例はほかにない。ビルは観光物産館、ホテルを併せている。 ビルの各階には反りの有るバルコニー・庇があり、外壁は光沢のあるワインレッドの泰山タイルが貼られている。窓は二重サッシになっており、内部に障子がある。サッシの間に照明が付けられ、夜間には光の帯を演出する。 地下3階・地上9階、スパン(梁間)7mの鉄骨鉄筋コンクリート構(SRC)造ラーメン構造(柱と梁の接合部を固く留め、変形を抑えた構造形式)、高さ30.8m。 ◆建設批判 京都タワー(高さ130m)の建設目的は、京都駅前に文化・産業・観光の一大拠点を作ることにあった。なお、現代、1961年にすでに開業していた横浜マリンタワー(高さ106m)があり、灯台を意識した意匠になっていた。 当時の京都には高さ制限(31m)があった。このため、ビル(高さ30m)の屋上に更にタワーを建てる「電波工作物」(高さ100m)として許可が下りた。 京都の景観保護の立場から建設反対の動きが起こる。1963年5月31日に、建築学者・建築家・西山卯三(1911-1994)らは、「京都を愛する会」を結成する。京都に東寺五重塔よりも高いものは建てないという不文律を破るとして、駅前の美観地区でのタワー建設に反対する。 6月12日に会は、企画運営する京都産業観光センターに対し、タワー撤去勧告を行う。声明文には建築家・吉田五十八(1894-1974)、建築家・丹下健三(1913-2005)、小説家・谷崎潤一郎(1886-1965)、小説家・志賀直哉(1883-1971)、実業家・大原総一郎(1909-1968)ら150人が署名を寄せた。 ほかに建築史研究者・神代雄一郎(1922-)も建設を批判した。若手建築家の東孝光(1933-2015)、紙野桂人(1933- 2002)、小林邦雄らは「チェックの会」を結成する。100人の建築家に意見を求めた。 反対運動に対して建設側の表立った反論はなかった。山田は「京都に新しい美を与えるもの」と主張した。その後の論争が深化することはなかった。結果として、京都タワーは竣工し既成事実化する。一連の動きは、後に京都での「第1次景観論争」と呼ばれる。 後に棚橋は、京都タワーが自分の作品の中で「一番良くできた」と語ったという。その後の歳月の経過とともに、京都タワーは「蝋燭」の意匠として定着した。京都での戦後モダニズム建築物作品の一つとして、いまも存在し続けている。 ❊原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 ❊参考文献・資料 ウェブサイト「京都タワー」、ウェブサイト「山田守建築事務所」、『関西のモダニズム建築』、『もうひとつの京都-モダニズム建築から見えてくるもの』、『京都のモダニズム建築』、『京都の歴史10 年表・事典』、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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