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冷泉天皇皇后 昌子内親王岩倉陵 (京都市左京区岩倉) Imperial mausoleum of princess Shoshi (Iwakura-no-misasagi) |
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冷泉天皇皇后 昌子内親王岩倉陵 | 冷泉天皇皇后 昌子内親王岩倉陵 |
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![]() 冷泉天皇皇后昌子内親王岩倉陵 ![]() 冷泉天皇皇后昌子内親王岩倉陵 ![]() 【参照】冷泉天皇皇后昌子内親王岩倉陵 |
岩座神社の西隣に、冷泉天皇皇后昌子内親王岩倉陵(れいぜいてんのうこうごう-しょうし/まさこ-ないしんのう-いわくら-の-みささぎ)がある。 ◆歴史年表 平安時代中期、985年、旧2月、昌子内親王により、大雲院の地に観音院(かんのんいん)が創建された。(『扶桑略記』)。開基は余慶僧正だった。(『寺門伝記補録』) 998年、旧2月、昌子内親王は観音院に荘園を寄進している。(『小右記目録』) 1000年、旧12月1日、昌子内親王は亡くなる。旧12月5日、遺言により観音院に葬られた。(『日本紀略』) 1013年、旧10月、昌子内親王の菩提を弔うための観音院塔の供養が行われた。(『日本紀略』) 鎌倉時代、1121年、園城寺僧徒の延暦寺修行僧殺害により、比叡山衆徒は、観音院(大雲寺)、園城寺、一乗寺に放火する。観音院はすぐに再建された。 南北朝時代、1136年、旧3月、慈覚門徒により観音院(大雲寺)は全焼した。(『中右記』)。その後、観音院は再建されなかった。後、荒廃し、堂跡には新羅明神が祀られる。 近代、1884年、陵墓に治定され、「観音院陵」、「西坂本陵」と称された。 1894年、「冷泉天皇皇后昌子内親王岩倉陵」に改められた。 ◆昌子 内親王 平安時代中期の第63代・冷泉天皇皇后・昌子 内親王(しょうし/ まさこ-ないしんのう、950-1000)。女性。父・第61代・朱雀天皇、母・女御・煕子(きし)女王の第1皇女。母は生後間もなく、父・朱雀上皇も30歳で亡くなる。963年、皇太子憲平親王(後の第63代・冷泉天皇)に入内した。967年、冷泉天皇即位とともに中宮に立后した。天皇は在位2年で退位する。973年、皇太后になる。子はなかった。985年、仏教に帰依し、石蔵(岩倉)大雲寺に荘園を施入し、観音院を創建した。観音院太后とも称される。986年、太皇太后になる。1000年、重い病に罹り、和泉式部の夫・橘道貞の三条邸で西方に向かって亡くなる。和歌が『新古今和歌集』などに収められた。50歳。 内親王の御所には越中守平保衡女、その娘の歌人・和泉式部が仕え、晩年には藤原為頼(紫式部の伯父)が太皇太后宮大進を務めた。 質素な葬送、土葬を遺言し観音院に葬られた。陵墓は冷泉天皇皇后昌子内親王岩倉陵(左京区岩倉)になる。 ◆陵墓 昌子内親王は、御所で「もののけ」に憑かれた時、余慶が祈祷し病治癒したことから、平安時代中期、985年旧2月に観音院を建て、余慶を開基にした。昌子内親王は、没後にこの地に葬られることを望んだという。1000年旧12月1日、昌子内親王は亡くなる。旧12月5日、観音院に葬られた。質素な葬送、土葬での埋葬も遺言していた。 平安時代後期、1121年の園城寺僧徒の延暦寺修行僧殺害により、比叡山衆徒は、観音院(大雲寺)などを放火している。観音院はすぐに再建された。南北朝時代、1136年3月に慈覚門徒により観音院(大雲寺)は再び全焼した。 その後、江戸時代前期、寛永年間(1624-1644)の大雲寺再興の際にも観音院は再建されなかった。後に荒廃し、堂跡には新羅明神が祀られた。 近代、1884年に陵墓に治定され、「観音院陵」、「西坂本陵」と称された。1894年に、現在の「冷泉天皇皇后昌子内親王岩倉陵」に改められている。南面し、方形になる。 ❊原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 ❊参考文献・資料 『京都市の地名』、『京都・山城寺院神社大事典』、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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