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尊良親王墓 (京都市左京区) The grave of Prince Takayoshi(Takanaga) |
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尊良親王墓 | 尊良親王墓 |
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![]() ![]() ![]() ![]() 「後醍醐天皇皇子 尊良親王御墓」の石標 ![]() 輪形の生垣 ![]() |
禅林寺(永観堂)門前の西に、鎌倉時代-南北朝時代の皇族・尊良親王墓(たかよし/たかなが-しんのう-はか)がある。 ◆歴史年表 南北朝時代、1337年3月6日、親王は越前・金崎城の落城とともに自害した。首級は京都に送られ、獄門にかけられる。その後、葬礼の上、現在地に埋葬されたという。 ◆尊良親王 鎌倉時代後期-南北朝時代の皇族・尊良親王(たかよし/たかなが-しんのう、1311?-1337)。男性。父・第96代・南朝初代・後醍醐天皇。母・歌人・為子(歌人・二条為世の娘)の第1/2皇子。1326年、元服し中務卿に任じられた。1331年、元弘の乱で、父・後醍醐天皇に従い笠置、赤坂城に入った。戦いに敗れ、自ら出て鎌倉幕府に捕えられ土佐に流される。九州へ渡り、1333年、肥前・江串氏に擁され挙兵した。鎮西探題の陥落後、大宰府に入る。建武政府 (建武中興 ) の成立により、京都に戻る。一品に叙せられ、一品中務卿親王と称された。1335年、離反した足利尊氏討伐のために、後醍醐天皇は親王を上将軍とし、新田義貞らと東征させた。だが、敗退する。尊氏が西国から京都に迫り、天皇は比叡山に逃れ、尊氏の請いを容れ還幸する。1336年、尊良親王、弟・恒良(つねよし)親王(第6皇子)は義貞に擁され、越前・金崎城に赴く。1337年、尊良親王は、高師泰(こうの もろやす)らに攻められ、落城時に自害した。27歳。 勅撰集『続後拾遺集』、『新葉集』に入集している。墓は尊良親王墓(左京区)がある。 なお、弟・恒良親王も捕えられ、京都に護送後、1338年、毒殺されたという。 ◆墓 尊良親王墓は西面している。小規模の円墳(輪形の生垣様)がある。 南北朝時代、1337年3月6日、親王は金崎城落城とともに自害した。首級は新田一族の首とともに京都に届けられた。獄門にかけられた。その後、禅林寺長老・夢窓疎石(1275-1351)の許に送られる。葬礼の後に、現在地に埋葬されたという。 *原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『昭和京都名所図会 2 洛東 下』、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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