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閑院内裏址 (京都市中京区) Site of Kanin Residence |
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閑院内裏址 | 閑院内裏址 |
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![]() 「此附近 閑院跡」の石標、境内東 ![]() 【参照】平安時代の閑院の復元図(京都市平安京創生館)、案内パネルより ![]() 【参照】「古城町」の地名 |
西福寺境内の東に「此附近(このふきん) 閑院内裏址(かんいん-だいり-あと)」の石標が立つ。 この地には、平安時代の公卿・歌人の藤原冬嗣(ふじわら-の-ふゆつぐ)の邸宅「閑院」(平安左京三条二坊)があった。その後も、鎌倉時代初期まで藤原氏の邸宅が置かれた。後、さまざまな歴史の舞台になった。 ◆歴史年表 平安時代、藤原冬嗣(775-826)が邸宅「閑院」を創設した。その後、藤原一族の間で伝領された。 814年、冬嗣は閑院に第52代・嵯峨天皇を迎えて詩宴を催した。 その後、藤原基経(836-891)、公季(956-1029)、兼通(925-977)が買い取り、朝光(951-995)に伝領された。実季(1035-1092)、基房(1145-1230)が引き継いだ。 その後、第71代・後三条天皇(1034-1073)以来、第73代・堀河天皇(1079-1107)、第80代・高倉天皇(1161-1181)、第82代・後鳥羽天皇(1183-1198)などの里内裏として使われた。 1186年、後鳥羽天皇の里内裏の時、地震により倒壊する。 その後、源頼朝が大江広元を奉行として再興した。 1190年、頼朝は上京し、この地で天皇に拝謁する。 鎌倉時代、1208年、焼失した。 1259年、放火により焼失し、以後、再建されることはなかった。 安土・桃山時代、1583年、豊臣秀吉は寺を小川寺内に移転させる。跡地(現在地)に二条新邸(妙顕寺城)を築造し京都の政庁にした。(『兼見卿記』『貝塚御座所日記』) 1587年、聚楽第の築造に伴い二条新邸の政庁としての役割は終わる。秀吉は大坂城から聚楽第に移る。 安土・桃山時代-江戸時代、慶長年間(1596-1615)、この地に西福寺が建立される。 江戸時代、秀吉邸跡地には牢屋敷が建てられる。 1708年、牢屋敷は天明の大火により焼失し、六角獄舎に移された。 現代、1915年、11月、京都市教育会(寄附者・柏木亀蔵)により石標が立てられた。 ◆藤原 冬嗣 奈良時代-平安時代前期の公卿・藤原 冬嗣(ふじわら-の-ふゆつぐ、775-826)。男性。通称は閑院大臣。父・北家・右大臣・藤原内麻呂、母・飛鳥部奈止麻呂の娘/百済永継(くだら-の-えいけい)の2男。806年、従五位下、第52代・嵯峨天皇の信任篤く、810年、平城太上天皇の変(薬子の変)を契機として、四位下で新設の初代・蔵人頭(くろうどのとう)に任じられる。式部大輔を経て、811年、参議になった。814年、従三位、自邸の閑院(平安左京三条二坊)に嵯峨天皇を迎え詩宴を催している。816年、権中納言、819年、正三位、大納言、821年、右大臣、825年、正二位で左大臣になった。「弘仁格式(きゃくしき)」「内裏式」を撰進し、漢詩は『文華秀麗集』、詩は『凌雲集』などに入る。52歳。 没後に正一位、太政大臣を追贈された。嵯峨天皇、第53代・淳和天皇の信を得た。娘・順子は第54代・仁明天皇の妃になり、道康親王(第55代・文徳天皇)を産む。次男・良房は嵯峨天皇皇女・潔姫(きよひめ)を妻に迎え、皇室との関係を深めた。藤原氏による摂関政治、北家繁栄の基礎を築く。一族子弟のための勧学院、施薬院、氏寺・興福寺に南円堂を建てた。 墓は宇治陵(宇治市)に包括されている。同域内の夫婦塚(赤塚)は冬嗣、妻・藤原美都子の夫婦墓ともいう。 ◆藤原 基経 平安時代前期の公卿・廷臣・藤原 基経(ふじわら-の-もとつね、836-891)。男性。幼名は手古、諡号は昭宣公、通称は堀河太政大臣。京都の生まれ。父・藤原長良、母・乙春(おとはる)(第58代・光孝天皇の外祖父・藤原総継の娘)の3男。叔父・藤原良房の養子になり、氏長者になった。851年、第55代・文徳天皇から加冠されて元服した。852年、蔵人、その後、左兵衛少尉、侍従、左兵衛佐、少納言を歴任した。858年、蔵人頭、播磨介、左近衛中将などを経て、864年、参議になる。866年、応天門の変で、父・良房と大伴氏、紀氏を排し、藤原氏政権の基礎を築く。従三位、中納言になる。868年、左大将、869年、按察使、870年、大納言、872年、正三位右大臣になった。876年、妹・高子が産んだ第57代・陽成天皇の践祚とともに摂政になる。880年、太政大臣に任じられた。事実上の人臣(臣下)最初の関白になる。883年頃から、陽成天皇と不和になり出仕せず、884年、時康親王を立て第58代・光孝天皇とした。事実上最初の関白になる。885年、光孝天皇に献進した「年中行事障子」は以後、宮廷行事の規範になった。887年、陽成天皇の没後、基経の意思により第59代・宇多天皇が嗣立される。基経は関白に任じた勅書に対し不満を持つ。橘広相の作成文に「阿衡(あこう)の任」とあり、古代中国の単なる名誉職の官名として、政務を怠業した。関白の権威を天皇に認めさせ、譲歩させて勅書を改めさせた。(「阿衡事件」)。888年、娘・温子が入内し、以後、天皇家に対する藤原氏の発言力が確立した。890年、病により関白を辞した。准三宮になる。56歳。 死後、越前国に封じられ、昭宣公の諡号を賜わる。藤原北家による摂関政治を確立した。菅原道真らと親交した。撰修『日本文徳天皇実録』。邸宅の堀河院、閑院(かんいん)を所有した。第54代・仁明天皇の笙の師だった。 墓は宇治陵(宇治市)に包括されている。 ◆藤原 公季 平安時代中期-後期の公卿・藤原 公季 (ふじわら-の-きんすえ、957-1029)。男性。閑院と称し、諡は仁義公。京都の生まれ。父・右大臣・藤原師輔(もろすけ)、母・康子内親王(第60代・醍醐天皇の皇女)の11男。娘・義子(ぎし)は、第66代・一条天皇女御。生後すぐ母を失い、異母姉・中宮手安子と第62代・村上天皇に宮中で皇子同様に愛育されたという。981年、従三位、公卿に列した。以後、参議、中納言を経て、左近衛大将、997年、内大臣、1017年、右大臣、1021年、従一位、太政大臣に昇任した。死去に際し、正一位が贈られ仁義公と諡された。73歳。 閑院流の祖。子孫は三条、阿野、西園寺、清水谷、今出河、洞院、徳大寺などの諸家に分れた。 ◆藤原 兼通 平安時代中期の公卿・藤原 兼通(ふじわら-の-かねみち、925-977)。男性。二条堀河に邸宅があり堀川殿とよばれる。諡は忠義公。京都の生まれ。父・右大臣・藤原師輔、母・盛子(もりこ、武蔵守・藤原経邦の娘)の2男。943年、従五位下になった。969年、参議、972年、権中納言になる。兄・摂政・伊尹(これただ)が没し、兼通は弟・大納言・兼家より下位の権中納言だった。妹・故中宮・安子(あんし、第62代・村上天皇皇后、第63代・冷泉天皇、第64代・円融天皇の母)の遺命を盾に、弟を抜き内大臣に昇る。同年、関白に就任したともいう。その後、娘・媓子(こうし)を円融天皇の後宮に入れ、皇后とした。974年、氏長者・太政大臣になり、忠義公と諡された。975年、従一位まで昇る。977年、弟・兼家の関白就任を阻むため、重病をおして参内した。従兄の関白・氏長者の地位を藤原頼忠に譲る。兼家は兼官の右近衛大将から治部卿に左遷され打撃を与えた。同年、兼通は堀河院(堀河殿)で病没した。53歳。 兼家との権力争いは知られ『大鏡』『栄花物語』に逸話がみえる。兼通は勅撰歌人であり、閨秀(けいしゅう、才能に優れた)歌人・本院侍従と恋愛した。没後に遠江国に封じられ、贈正一位。 ◆藤原 朝光 平安時代中期の公卿・藤原 朝光(ふじわら-の-あさみつ/あさてる、951-995)。詳細不明。男性。閑院大将とよばれる。父・藤原兼通(かねみち)、母・昭子女王の4男。974年、参議、のち正二位、大納言に昇る。兄・顕光(あきみつ)よりはやく昇進した。977年、父没後、振わなかった。『拾遺和歌集』以下の勅撰集に入首。家集『朝光集』。 45歳。 ◆後三条 天皇 平安時代後期の第71代・後三条 天皇(ごさんじょう-てんのう、1034-1073)。男性。名は尊仁(たかひと)、法名は金剛行。京都の生まれ。父・第69代・後朱雀天皇、母・禎子(よしこ)内親王 (陽明門院) (第67代・三条天皇の皇女)の第2皇子。禎子は、200年ぶりの藤原氏以外の出身だった。3歳で親王宣下を受ける。1045年、異母兄・親仁親王(第70代・後冷泉天皇)の即位に際し12歳で東宮になる。1046年、元服、大納言・藤原能信の養女・茂子(実父は中納言・藤原公成)を妃にする。1068年、後冷泉天皇の死により35歳で践祚(せんそ、皇嗣が天皇の地位を受け継ぐ)し即位した。藤原教通(のりみち)を関白とした。1069年、記録荘園券契所(けんけいじょ)を設けた。1070年、御願により円宗寺を創建し、法華会、最勝会を勅修する。1072年、第1皇子・貞仁(さだひと)親王(第72代・白河天皇)に譲位し、第2皇子・実仁親王(白河天皇の異母弟)を東宮にした。1073年、院蔵人所(いんのくろうどところ)を置き、後の院政の布石になる。同年、亡くなり、遺骸は神楽岡で荼毘に付された。京都で没した。40歳。 陵墓は円宗寺陵(右京区)になる。天王塚陵墓参考地(左京区平安神宮境内)が火葬塚という。 外戚に藤原摂関家がなく、藤原氏の内紛に乗じて親政を行う。第59代・宇多天皇以来170年ぶりのことだった。反摂関家的立場にあり、それまで冷遇されていた中下級貴族の村上源氏、大江匡房(おおえ-の-ますふさ)、受領(ずりょう、任国で実務した国司)、皇族出身者を登用した。荘園整理令の発布、実施するための記録荘園券契所の設置により不正な荘園を廃しようとした。成功(じょうごう、売官) 、重任(ちょうにん)を厳禁した。収公された荘園の多くは天皇領になり、摂関家、大寺社の打撃になる。禁中の調度供御を簡約にし、標準桝として宣旨枡(せんじます、延久宣旨枡)を定め、全国的な一国平均役の徴収をした。中世の土地の基本台帳になる大田文(おおたぶみ)を作成した。学を好み、日吉社などの諸社に行幸した。 ◆藤原 実季 平安時代後期-鎌倉時代前期の公卿・藤原 実季(ふじわら の さねすえ、1035-1092)。男性。後閑院大納言、後閑院贈太政大臣。 父・権中納言・藤原公成、母・藤原定佐の娘の2男。1046年、叙爵し、1051年、侍従、1061年、左近衛少将に任じられる。昇進は進まず、1066年、従四位下に昇叙、近衛少将は解任になる。妹・茂子は、皇太子・尊仁親王(後の第71代・後三条天皇)の妃になり、1068年、即位とともに実季は従四位上、1069年、蔵人頭兼左近衛中将と昇進し、1072年、参議に任ぜられ、兵衛督・検非違使別当などの武官を兼帯した。1072年、貞仁親王の即位(第72代・白河天皇)により、実季は外伯父として天皇の信任を得て、1073年、従三位、1074年、大嘗会の悠紀国司として正三位に叙せられ、権中納言に昇る。1075年、従二位、正二位、1080年、権大納言、春宮・実仁親王の春宮大夫を兼ね、1083年、大納言に至った。58歳。 没後、1098年、娘・藤原苡子が第73代・堀河天皇に入内し、1107年、第74代・鳥羽天皇の生母となった。実季は、天皇の外祖父として正一位・太政大臣を追贈された。 ◆白河 天皇 平安時代後期の第72代・白河 天皇(しらかわ-てんのう、1053-1129)。男性。貞仁(さだひと)。六条院。法名は融観。京都の生まれ。父・第71代・後三条天皇、母・贈皇太后・茂子(もし)(摂関家ではない中納言・藤原公成の娘)の第1皇子。1069年、皇太子に立てられる。1072年、20歳で践祚(せんそ、皇嗣が天皇の地位を受け継ぐ)、即位した。摂関家の勢力減退に乗じ、実権を伸ばした。後三条上皇の意向により、東宮は異母弟・実仁(さねひと)親王になった。1075年、法勝寺の創建に着手する。同年以降、荘園整理令を発した。1076年、嵯峨行幸を行う。1077年、六勝寺の初めになる法勝寺を創建した。1078年、清涼殿で殿上歌合が催された。1085年、実仁親王が病死する。父の遺言に背き、1086年、8歳の自らの第3皇子・善仁(たるひと)親王(第73代・堀河天皇)を皇太子に立て、即日譲位した。中宮・賢子(けんし/かたいこ)との間の皇子だった。自らは院政を敷く。1087年、別業の鳥羽殿(南殿)を建立する。1095年頃、白河に白河殿を建立した。1096年、皇女・郁芳門院(いくほうもんいん)の死を悼み、出家し法皇になり、融覚と称した。1107年、堀川天皇が亡くなり、5歳の孫・宗仁(むねひと)親王(第74代・鳥羽天皇)を即位させた。1120年、関白・藤原忠実が失脚し、摂関家の権勢は低下した。1123年、曾孫・顕仁(あきひと)親王(第75代・崇徳天皇)と、3代にわたり43年間の強権的な執政を行う。院政の始まりになる。1129年、西三条殿内裏(西対 [にしのたい])で亡くなる。77歳。 衣笠山山麓で荼毘に付され、香隆寺に埋葬される。その後、1131年、成菩提院(成菩提院陵)(伏見区)に改葬された。追号は、白河の地に因んで生前に白河院(しらかわいん)と定められた。 「治天の君(院政を執り行う上皇)」といわれた。「賀茂川の水、双六の賽、山法師(延暦寺衆徒の強訴)は、これ朕が心に従わざるもの」(天下の三不如意)と嘆いた。延暦寺衆徒の強訴に対し、源平の北面の武士を登用し、騒乱に備えた。荘園の整理を断行する。院御所は主に六条院とした。200カ所以上の倉を有し、熊野参詣は9度行う。中下級貴族の院近臣が形成された。白河に白河殿を営む。国王の氏寺といわれた法勝寺など多くの造寺造仏、写経を行う。院政の舞台になった鳥羽離宮などの大土木工事を行う。『後拾遺和歌集』『金葉和歌集』の撰進を命じ、勅撰集『後拾遺』に採録された。日記に『白河院御記』がある。 ◆堀河 天皇 平安時代後期の第73代・堀河 天皇(ほりかわ-てんのう、1079-1107)。男性。善仁(たるひと)。父・第72代・白河天皇、母・贈皇太后・賢子(けんし)(関白・藤原師実の養女)の第2皇子。1085年、第71代・後三条天皇の遺子・皇太子・実仁(さねひと)親王が病死した。白河天皇は、後三条天皇の第3皇子・輔仁(すけひと)親王を差置き、1086年、8歳の善仁親王を立太子と同時に即日譲位した。外祖父で関白・師実が摂政になる。白河上皇が院政を敷き、院政の始まりといわれる。以後、17年間は東宮も置かれなかった。1087年、後三年の役が終了している。1089年、元服した。1099年、康和の荘園停止令により、新立の荘園が停止される。1105年以降、病がちになる。1107年、堀河院で亡くなる。29歳。 関白・藤原師通、藤原通俊、大江匡房らが補佐し、僧徒の蜂起を制止した。政務は「末代の賢王」(『続古事談』)と称賛された。19歳年上の中宮・篤子内親王(後三条天皇皇女、堀河天皇の叔母)の影響もあり和歌を好み、歌人・源国信、藤原俊忠、源俊頼らにより堀河院歌壇を形成した。『堀河院艶書合』『堀河院百首』などが催された。勅撰集『金葉集』に収められる。笙、笛、神楽にも優れた。典侍・藤原長子の『讃岐典侍日記』は、天皇の死に至るまでの1カ月を回想している。生涯のほとんどを堀河院で過ごし「堀河天皇」の追号になった。 陵墓は後圓教寺陵(右京区)になる。火葬塚(北区)がある。 ◆藤原 基房 平安時代後期-鎌倉時代前期の公卿・藤原 基房(ふじわら-の-もとふさ、1145-1230)。男性。松殿、中山菩提院、菩提院、中山、法名は善観。京都の生まれ。父・関白・忠通、母・俊子(源国信[くにざね]の娘)の2男。1156年、正五位下になり、権中納言、内大臣、左近衛大将、右大臣を経て、1166年、兄・近衛基実(もとざね)の没後、次いで摂政、氏長者になった。平清盛の介入で基実の遺領を実質的に平氏に取られる。太政大臣、関白を歴任した。1170年、殿下乗合事件で基房と平資盛の諍い、その父・重盛の報復事件により反平氏の感情をもった。1179年、故・基実の室・平盛子(平清盛の娘)が没し、白河上皇(第72代)と示し合わせ、基実の遺領を院領にするなどした。清盛は怒り後白河院を幽し、基房の関白を解任し大宰府へ配流した。基房が出家したため、備前(岡山県)に変更し流した。1180年、召還ののち、近衛基通(もとみち)、九条兼実に対抗し、入京した源義仲の力で子・師家(もろいえ)を摂政にした。1184年、義仲の敗死で失脚した。以後、公事識者として仕えた。86歳。 朝儀に通じ、有職先達として朝廷に重んじられる。後白河院が作成させた『年中行事絵巻』の解説を依頼された。 ◆源 頼朝 平安時代後期-鎌倉時代前期の、武将・源 (みなもと-の-よりとも1147-1199)。男性。父・源義朝(よしとも)、母・熱田大宮司・藤原季範(すえのり)の娘の3男。1156年、保元(ほうげん)の乱の戦功により、右馬権頭(うまごんのかみ)に任じられた。1158年、12歳で皇后宮権少進に任官される。1159年、上西門院蔵人・内蔵人に補せられた。藤原信頼、源義朝らの反乱が一時成功し、従五位下右兵衛佐に叙任された。信頼、義朝らは平清盛に敗れる。(平治の乱)。頼朝は、東国に敗走する父・義朝に従った。途中、美濃で捕らえられ京都に送られた。斬罪に処せられるところを、清盛の義母・池禅尼の口添えにより、1160年、伊豆国に流罪になる。1170年頃、北条時政の娘・政子と結婚した。1180年、以仁(もちひと)王の平氏討伐の令旨(りょうじ)に応じるかたちで、反平氏の挙兵をする。石橋山(神奈川県小田原市)の合戦で敗れ、安房(あわ)へ逃れた。房総で勢力回復し、平広常(上総介広常)、千葉常胤(つねたね)らの来援を得て、富士川の戦で勝利した。鎌倉を本拠とする南関東軍事政権を確立する。1183年、同族の源義仲が平氏を追い落として京都に入り、後白河上皇(第77代)に接近し、義仲を出し抜き東国の支配権を認めさせた。義仲と対立し、1184年、弟の源範頼・義経を派遣し義仲を破った。1185年、平氏を長門壇ノ浦の戦で滅ぼす。その後、弟・義経と対立し、上皇が一時、義経に味方したため、義経追捕を名目に上皇に迫り、議奏公卿・守護・地頭の設置を実現、幕府開設の基礎を固めた。1189年、義経の死後、奥州藤原氏を討つ。1190年、上洛し、上皇に対面して和解した。権大納言・右近衛大将に任命され、まもなく辞した。1192年、上皇の死後、征夷大将軍に任命された。1199年、鎌倉で落馬が原因で亡くなる。53歳。 鎌倉幕府初代将軍、武家政治を創始した。 ◆大江 広元 平安時代後期-鎌倉時代前期の幕府の重臣・大江 広元 (おおえ-の-ひろもと、1148-1221)。号は覚阿。京都の生まれ。父・式部少輔・大江維光/藤原光能。明経(みょうぼう)博士・中原広季(ひろすえ)の養子になる。大江匡房(まさふさ)の曾孫。朝廷の外記(げき)として文筆の職にあった。その後、安芸権介担った。源頼朝と親しく、広季の養子・親能の関係から頼朝に招かれ、1184年以来、幕府の公文所、政所の初代別当になる。頼朝の右筆(ゆうひつ)を勤めた。朝廷との折衝で、平氏追討の時期に頼朝の意を朝廷に伝える役を果たした。1185年、守護地頭の設置を頼朝に献策する。1190年、頼朝に従い上洛し、京都にとどまり、1191年、政所別当、明法博士、左衛門大尉、検非違使になる。頼朝の腹心として朝幕関係の安定化に努めた。1199年、頼朝の死後、政子の信任を得て、北条氏を中心とする執権政治確立の基礎固めた。1199年、将軍頼家の訴訟親裁を止め、13人の有力御家人による合議政治を開始した。1203年、北条時政が比企能員(ひき-よしかず)を謀殺した事件(比企氏の乱)、時政とはかって頼家を廃し頼家を伊豆・修善寺に幽閉した事件に深く関与した。時政が執権として力を振い、広元は政所別当を退く。1205年、時政の出家と平賀朝雅追討、1213年、和田義盛の挙兵では、幕府長老として政子・北条義時を助けた。1216年、再び政所別当になり、大江姓に復帰した。1217年、重病により出家して覚阿と称した。その後も、1219年、3代将軍・実朝暗殺事件、1221年、承久の乱では京都攻撃策を主張し、幕府方を勝利に導き、乱後の処置をとる。1224年、伊賀氏の変などの事件の処理にあたった。78歳。 因幡守・陸奥守などを歴任した。実朝に武芸だけでなく、三代集、聖徳太子の『十七条憲法』『小野小町盛衰図』などを献じ協力した。 ◆高倉 天皇 平安時代後期の第80代・高倉 天皇(たかくら-てんのう、1161-1181)。男性。憲仁(のりひと)。京都の生まれ。父・第77代・後白河天皇、母・平時信(ときのぶ)の娘・尊称皇太后・建春門院滋子(しげこ)の第7皇子。滋子の姉は平清盛の妻・時子。3歳で清盛の娘で関白基実の妻・盛子の猶子になる。1166年、第79代・六条天皇の皇太子になる。1168年、六条天皇の譲位を受けて8歳で即位した。1172年、最盛期の清盛の娘・徳子(建礼門院)を中宮にする。院政を敷く父・後白河法皇と清盛の対立が起こる。1177年、鹿ヶ谷事件が起こる。1178年、徳子が産んだ生後間もない皇子・言仁(ときひと)親王(第81代・安徳天皇)を皇太子にした。1179年、清盛は後白河法皇の院政を止め、法皇を鳥羽殿に幽閉した。(治承三年の政変)。1180年、3歳の第81代・安徳天皇に譲位した。清盛の請により、安芸・厳島神社に上皇初の御幸をする。京都近辺の寺院勢力は反平氏に動き、以仁王、源頼政の挙兵、福原遷都と相次ぐ。平氏政権が揺らぎ始める。1181年、六波羅第の平頼盛邸で亡くなる。詩歌管絃、笛に優れた。京都で没した。21歳。 陵墓は後清閑寺陵(東山区)になる。遺骸は、清閑寺の法華三昧堂の堂下に埋葬される。1863年に修復された。 ◆後鳥羽 天皇 平安時代後期-鎌倉時代中期の第82代・後鳥羽 天皇(ごとば-てんのう、1180-1239)。男性。諱は尊成(たかひら)、法名は良然、別名に顕徳院、隠岐(おきの)院。後に後鳥羽院。京都の生まれ。父・第80代・高倉天皇、母・准后七条院藤原殖子(やすこ/しょくし、坊門信隆の娘)の第4皇子。1183年、平氏は、第81代・安徳天皇(後鳥羽天皇の兄)、第2皇子・守貞(もりさだ)親王を伴い都落ちする。都には天皇不在になり、祖父・後白河法皇(第77代)の詔により、神器がないままに尊成親王が4歳で践祚(せんそ、皇嗣が天皇の地位を受け継ぐ)した。一時、天皇が2人存在する事態になる。1184年、即位の式を挙げた。1190年、元服する。1192年、院政を敷いた後白河法皇の没後、4歳の後鳥羽天皇の親政になる。実権は関白・九条兼実、1196年、その失脚後は源(土御門)通親が握った。(建久七年の変)。1198年、幕府の反対を押し切り、皇子・為仁親王(第83代・土御門天皇)に譲位し院政を始める。以後、第84代・順徳天皇(土御門の弟)、第85代・仲恭天皇(順徳の子)と3天皇に23年に渡り院政を敷いた。1199年、上皇により九条良経が左大臣に任命され、九条家が復帰した。1202年、通親の没後は、強権的になる。1219年、鎌倉幕府3代将軍・源実朝の暗殺後、幕府は後継将軍として上皇皇子を要請する。上皇は拒絶し、幕府からの政権奪取を目指し、畿内、近国の兵を集める。1221年、執権・北条義時追討の宣旨を出して挙兵し、承久の乱になる。幕府が上洛させた北条泰時らの大軍に上皇方は敗れる。鳥羽殿に幽閉され、出家し良然(金剛理とも)と称した。幕府は平氏に育てられ即位していない、兄・後高倉院に院政を執らせた。仲恭天皇は退位し、1221年、第86代・後堀河天皇(後高倉院の子)を即位させる。幕府は後鳥羽、土御門、順徳の3上皇を配流した。後鳥羽上皇は隠岐に流される。1235年、遷京の動きは幕府により拒否された。1239年、隠岐での18年の生活の後に同地苅田で没した。60歳。 第83代・土御門天皇、第84代・順徳天皇、第85代・仲恭天皇の3天皇に院政を敷いた。西面の武士を新設する。白河に最勝四天王院を建て、水無瀬、鳥羽、宇治などに院御所を営んだ。1198年以来、熊野詣は28回に及ぶ。芸能(蹴鞠、琵琶、笛)、武技(流鏑馬、犬追物、相撲、水泳)、刀剣鍛造も行った。和歌にも長じ、1201年、和歌所を設ける。千五百番歌合は名高い。藤原定家らに『新古今和歌集』(1205)を勅撰させた。日記に『後鳥羽天皇宸記』がある。 上皇の死の前後に、1234年、第85代・仲恭天皇、第86代・後堀川天皇、1240年、北条時房、1242年、北条泰時らが相次いで亡くなる。無念の死を遂げた上皇の怨霊による仕業と怖れられた。上皇の当初の諡号は顕徳院であり、祟りを怖れ、後鳥羽院に改められた。 火葬塚は、島根県隠岐郡海士町にある。1658年、松江藩主・松平直政が修理した。遺骨は大原陵(左京区)に葬られる。 ◆土御門 天皇 鎌倉時代前期-中期の第83代・土御門 天皇(つちみかど-てんのう、1195-1231)。男性。為仁(ためひと)。京都の生まれ。父・第82代・後鳥羽天皇、母・内大臣・源通親の娘(実父は法印能円)の在子(ざいし、承明門院)の第1皇子。1198年、4歳で鳥羽天皇の皇太子になり即位した。父・後鳥羽上皇の院政下に置かれる。上皇は、異母弟・守成を寵愛し、その命により、1210年、守成(もりなり)親王(第84代・順徳天皇)に譲位した。1221年、承久(じょうきゅう)の乱で、上皇の倒幕計画に関与しなかった。乱後、後鳥羽上皇・順徳上皇の配流を聞き、自ら幕府に申請して土佐国に配流になる。後に阿波国に移り、同地で没した。土佐院、阿波院とも呼ばれる。和歌にすぐれ、『土御門院御百首』などがある。「新三十六人撰」のひとり。阿波(岡山県)で没した。37歳。 阿波の池の谷で火葬され、遺骨は母・承明門院により金原陵(長岡京市)に移葬された。火葬塚(鳴門市)があり、阿波神社が祀られている。鳴門市里浦町にも伝承地がある。 ◆豊臣 秀吉 室町時代後期-安土・桃山時代の武将・豊臣 秀吉(とよとみ-ひでよし、1537-1598)。男性。幼名は日吉丸、初名は木下藤吉郎。小猿と呼ばれた。父・尾張国(愛知県)の百姓、織田信秀の足軽・木下弥右衛門、母・百姓の娘・なか(天瑞院)。1551年、家出し、後に今川氏の家臣・松下之綱、1554年、織田信長に仕える。1561年、浅野長勝の養女・ねねと結婚し、木下藤吉郎秀吉と名乗った。戦功を重ね、1573年、小谷城主、羽柴姓と筑前守、信長の天下統一にともない西国転戦した。1582年、備中高松城の毛利軍と戦いの最中に本能寺の変が起こり和睦した。軍を返し山崎で明智光秀を討つ。1584年、小牧・長久手で織田信雄、徳川家康の連合軍に敗れる。1585年、紀州根来と雑賀、四国・長宗我部元親を服した。関白に進む。1586年、聚楽第、広寺大仏造営に着手し、太政大臣に昇り豊臣の姓を賜わる。1587年、九州征討、聚楽第が完成する。旧10月、北野天満宮で北野大茶湯を催した。1588年、第107代・後陽成天皇が聚楽第を行幸する。検地、刀狩を行う。1590年、小田原の北条氏直らの征討、朝鮮使を聚楽第に引見した。1591年、利休を自刃させる。1592年、文禄の役を始めた。甥の養子・秀次に関白職を譲り、太閤と称した。1593年、側室淀殿に秀頼が生まれると、1595年、秀次を謀反人として切腹させ、妻妾子女らも処刑した。1597年-1598年、朝鮮を攻めた慶長の役に敗れた。1598年、旧3月、醍醐寺で「醍醐の花見」を行う。旧8月、伏見城で没した。62歳。 「普請狂」と称された。京都で「都市改造」を行う。1585年-1591年、洛中検地・洛中地子免除(1591)、1586年よりの方広寺大仏建設、1586年-1587年、聚楽第・周辺の武家邸宅街建設、1589年、禁裏・公家町の修造整備、1590年、新町割建設(短冊形町割)、1590年、三条大橋などの橋梁・道路建設、1591年、御土居築造、寺院街(寺町・寺之内)建設、1595年、方広寺大仏、1597年、伏見城を建てた。ほか、関所廃止、楽市・楽座制、重要都市・鉱山直轄、貨幣鋳造、太閤検地・刀狩、伏見の城下町化、宇治川の整備、倭寇取締、朱印貿易などを進めた。没後、豊国廟に豊国大明神として祀られた。 ◆閑院 この地には、奈良時代-平安時代前期の公卿・歌人の藤原冬嗣(775-826)の邸宅があり、平安左京三条二坊にあり、現在の古城町、下古城町、周辺の6町に跨っていた。当初から閑院(かん-いん)と呼ばれていたという。「閑なる所」にあり名付けられた。庭内に泉が湧き、閑雅な風情から名付けたともいう。壮大な池の畔に柳が植えられ、松は音をたて、炎暑の日でも冷感を感じるほどだったという。 藤原基経(836-891)、公季(956-1029)、兼通(925-977)が買い取り、朝光(951-995)に伝領された。実季(1035-1092)、基房(1145-1230)が引き継いだ。 第71代・後三条天皇(1034-1073)以来、第72代・白河上皇(1053-1129)、第73代・堀河天皇(1079-1107)、第80代・高倉天皇(1161-1181)、第82代・後鳥羽天皇(1180-1239)、第83代・土御門天皇(1195-1231)などの里内裏としても使われる。 鎌倉時代前期、1186年、後鳥羽天皇の里内裏の時、地震により倒壊する。その後、源頼朝が大江広元を奉行として再興した。1190年、頼朝は上京し、この地で天皇に拝謁する。鎌倉時代前期、1208年、焼失した。鎌倉時代中期、1259年、放火により焼失し、以後、再建されることはなかった。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 案内板、『京都府の歴史散歩 上』、『京都』、『京都大事典』 、京都市平安京創生館、『京都 秀吉の時代-つちの中から』、ウェブサイト「京都のいしぶみデータベース-京都市」、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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