一乗寺跡 (京都市左京区) 
Site of Ichijo-ji Temple
一乗寺跡  一乗寺跡
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 一乗寺(いちじょう-じ)の一乗寺集会所(修学院児童館隣)の敷地内に、「一乗寺址(いちじょう-じ-あと)」の碑が立つ。かつてこの地域には、天台宗の寺院が点在していた。
 平安時代-南北朝時代、この付近に一乗寺という寺院があり、地名もこの寺院に由来する。
 天台宗。
◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。
 平安時代、10世紀(901-1000)後半、すでに一乗寺は存在したという。
 981年、山門(延暦寺)と寺門(園城寺)との対立により、難を逃れた園城寺別当・穆算(しゅうさん)、門徒がこの地に住した。(『扶桑略記』『園城寺伝記』)
 988年、10月、比叡山に詣でた第64代・円融天皇が、夕刻に当寺に宿泊した。(『日本略記』)
 1001年、一乗寺の名が記されている。(『日本略記』)
 1063年、上東門院(一条天皇中宮・藤原彰子)により、園城寺(三井寺)別院(末寺)として建立された。御願寺になる。(『拾芥抄』『百錬抄』)
 1080年、園城寺31代・長吏・隆明、32代・増誉の助力により、上東門院の御願寺になる。阿闍梨3口が置かれた。
 1121年、延暦寺衆徒によって焼き討ちされる。(『百錬抄』)
 南北朝時代、1335年、南北朝の戦乱により、北朝方・細側軍は薮里一帯に火を放ち、当寺も焼失した。その後、再建されず廃絶した。(『太平記』)
 近代、1931年、修学院村一乗寺が京都市に編入された。
 現代、1959年、1月、この付近(一乗寺薬師堂町)より、一乗寺の礎石が発掘された。多数の地蔵石仏も出土する。現在の碑が一乗寺集会所内に立てられる。
◆穆算 平安時代中期の天台宗寺門派の僧・穆算(しゅうさん、944-1008)。詳細不明。男性。城寺別当。981年、山門との対立で難を逃れ、この地に住したという。64歳。
◆藤原彰子 平安時代中期-後期の中宮・藤原彰子(ふじわら-の-しょうし/あきこ、988-1074)。女性。上東門院彰子。父・公卿・藤原道長(966-1028)、母・源雅信(まさのぶ)の娘・倫子(りんし)。999年、入内し、1000年、第66代・一条天皇の中宮になる。天皇には藤原道隆の娘・中宮・定子(ていし)がいた。二后併立のため、定子を皇后、彰子を中宮とした。1008年、敦成親王(第68代・後一条天皇)、1009年、敦良親王(第69代・後朱雀天皇)を産む。1012年、皇太后、1018年、太皇太后宮になる。1026年、出家し、上東門院の院号宣下を受けた。1030年、法成寺(ほうじょうじ)無量寿院の傍に東北院を建立した。87歳。
 後一条、後朱雀院、父・道長、妹・妍子(けんし)、威子(いし)、嬉子(きし)らに先立たれ、『栄花物語』に記されている。女官・歌人の紫式部(?-?)、和泉式部、((976頃-1036頃)、伊勢大輔(989?-1060)、赤染衛門(956?-1041)らの才媛を集めた。
 大谷口で火葬され、陵所は宇治陵(宇治市)になる。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 『京都・山城寺院神社大事典』、『昭和京都名所図会 3 洛北』、ウェブサイト「京都市 京都のいしぶみデータベース」、『京都大事典』、ウェブサイト「コトバンク」

 
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一乗寺址 〒606-8142  京都市左京区一乗寺燈籠本町26 一乗寺集会所(修学院児童館隣)
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