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久昌院 (京都市東山区) Kyusho-in Temple |
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久昌院 | 久昌院 |
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![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 庫裡 ![]() ![]() ![]() ![]() 鐘楼 ![]() ![]() ![]() 本堂 ![]() 庭園 ![]() 庭園 ![]() 奥平家の霊屋 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
建仁寺境内の西に塔頭・久昌院(きゅうしょう-いん)がある。武将・奥平家の菩提寺になっている。 臨済宗建仁寺派。本尊は薬師如来。 ◆歴史年表 江戸時代、1608年/1614年、武将・奥平信昌(おくだいら-のぶまさ)・松平忠明は、三江紹益(さんこう-じょうえき)を開山として創建したという。(『坊目誌』)。信昌の法号により久昌院とした。以後、奥平家の菩提寺になる。 ◆三江 紹益 室町時代後期-江戸時代前期の臨済宗の僧・三江 紹益(さんこう-じょうえき、 1572?-1650)。男性。京都の生まれ。道号は友林、友竹。徳川家康に信任され、経書を講じた。1598年/1608年、慈芳院、1604年、常光院の開山になる。1606年、建仁寺に入山し、建仁寺295世になる。1608年/1614年、久昌院、1615年、月真院、春光院、1616年、岡林院などを中興開山した。1624年、高台寺の中興開山になる。1632年、円徳院を開く。78歳?。 北政所が帰依した。木下家定(北政所の兄)と親交があり、その子は紹益の弟子・紹叔になる。 ◆奥平 信昌 室町時代後期-江戸時代前期の武将・奥平 信昌(おくだいら-のぶまさ、1555-1615)。男性。初名は定昌、通称は九八郎。三河(愛知県)の生まれ。父・美作守・奥平貞能、母・牧野成種の娘。徳川家康に仕え、1570年、姉川の戦に父と共に従軍した。妻を人質として送り、武田氏に降る。のち家康に再出仕し、1575年、長篠の戦で武田勝頼の大軍より三河長篠城城を守り、信長・家康軍を勝利に導く。信長は「信」の一字を与え信昌と名乗った。1576年、三河の新城に城を築く。家康は、武田方の人質になり殺された信昌の妻にかわり、信昌に長女・亀姫を嫁がせた。1581年、遠江高天神城攻め、1584年、小牧の戦で戦功をあげる。1587年/1588年、従五位下・美作守に叙任された。1590年、小田原征伐、上野国の宮崎に石を与えられた。1600年、関ヶ原の戦で東軍・家康方に属した。初代京都所司代に任じられ、本願寺(西本願寺)に潜伏の西軍・安国寺恵瓊を捕える。1601年まで、京都所司代に任じられた。美濃加納に転封した。1602年、致仕、加納城主の家督を3男・忠政に譲る。美濃の加納で没した。61歳。 墓は盛徳寺(岐阜市)、建仁寺・久昌院(東山区)にある。法名は「久昌院殿泰雲道安大禅定門」。 ◆松平 忠明 室町時代-江戸時代初期の武将・大名・松平 忠明(まつだいら-ただあきら、1583-1644)。男性。初名は清匡(きよただ)。三河(愛知県)の生まれ。父・徳川氏の重臣・奥平信昌、母・亀姫(盛徳院)(徳川家康の娘)の4男。1588年、家康の養子になり、松平姓を許された。1592年、兄死後、家督を継ぎ、上野長根に所領を得る。1600年、関ヶ原の戦いで父と共に徳川方として参戦した。1602年、三河作手(つくで)藩主になる。1610年、伊勢亀山藩に移封。1614年、大坂冬の陣で河内口方面の大将になる。休戦協定後、家康の命で大坂城外堀・内堀の埋め立て奉行になる。1615年、大坂夏の陣の功により摂津大坂藩藩主になった。1619年、大和郡山藩へ加増移封になる。1632年、家光の後見人(大政参与)の一人に任じられる。1639年、播磨姫路藩に加増移封、江戸幕府の宿老になった。著『当代記』。62歳。 多くの都市計画を手掛け、京都では伏見町人の大坂移住、堀川開削などを行う。茶を小堀遠州に学んだ。 墓は建仁寺・久昌院(東山区)にある。 ◆亀姫 室町時代後期-江戸時代前期の亀姫(かめひめ、1560-1625) 。女性。駿河(静岡県)の生まれ。父・徳川家康の長女。奥平信昌の妻。夫・信昌の国替えにより美濃納に移り「加納御前」と呼ばれた。1622年、弟・2代将軍・徳川秀忠暗殺計画の宇都宮釣り天井騒動(巷説)に関し、秀忠にはたらきかけ、本多正純を改易に追いやったという。66歳。 墓は建仁寺・久昌院(東山区)にある。 ◆奥平 貞能 室町時代後期-安土・桃山時代の武将・奥平 貞能(おくだいら-さだよし、1537-1599)。号は牧庵。父・奥平貞勝、子に信昌。今川氏真、徳川家康に従った。一時、武田信玄に仕えた。1573年、信玄の没後、家康に属し、1575年、長篠の戦いで功をたてる。のち上野(群馬県)小幡城主になった。1590年、隠居した。伏見に住した。62歳。 墓は当初、建仁寺にあり、後に塔頭・久昌院(東山区)に移された。 ◆奥平 貞勝 室町時代後期の武将・奥平 貞勝(おくだいら-さだかつ、1512-1595)。詳細不明。通称は監物、号は道文。子に貞能、孫に信昌。三河(愛知県)作手(つくで)の領主になる。松平氏、今川氏、後に武田氏に属した。84歳。 墓は建仁寺・久昌院(東山区)にある。 ◆雪村 友梅 鎌倉時代後期-南北朝時代の臨済宗の僧・雪村 友梅(せっそん-ゆうばい、1290-1347)。男性。俗姓は一宮、別号は幻空。越後(新潟県)の生まれ。鎌倉で侍童になる。1307年、18歳で元に渡る。間諜の嫌疑をかけられる。その後、大赦後、長安・翠微寺の住持、元の朝廷より宝覚真空禅師の号を特賜された。1329年、帰国する。1330年、師・一山一寧を嗣いで諏訪・慈雲寺の住持になる。1343年、朝廷、足利尊氏、直義らの招きに応じ万寿寺、1345年、建仁寺30世になった。57歳。 詩偈に秀で、五山文学始原に関与した。趙子昂の筆法も能くする。在元中に詩文集『岷峨集(びんがしゅう)』を著す。 墓は建仁寺・久昌院(東山区)にある。 ◆赤松 則村 鎌倉時代中期-南北朝時代の武将・赤松 則村(あかまつ-のりむら、1277-1350)。男性。通称は次郎、法名は円心。播磨国(兵庫県)の生まれ。父・茂則。播磨国佐用荘の地頭の一族、護良親王の令旨を受け宮方(南朝方)につき、1333年、赤穂・苔縄城に挙兵し、足利高氏(尊氏)と共に六波羅を攻めた。その功により建武政権で播磨守護職を得るが、その後取り上げられる。1335年、尊氏が新政権に反し関東に向かい、次男・貞範を同行させた。1336年、尊氏が京都で北畠顕家らに敗れ九州に逃れ、播磨白旗城に立て籠り追討軍を阻む。尊氏の室町幕府により播磨守護に復した。1350年、観応の擾乱で、尊氏・高師直方に与し、播備国境の船坂峠を固めたが、京都七条の自邸で病死した。74歳。 禅に帰依し、雪村友梅を招き赤穂苔縄に法雲寺を建てた。宗峰妙超が大徳寺を開くと最初の檀越になる。雪村の没後、建仁寺の東南に大竜庵を建て塔所にした。 ◆浮田 一蕙 江戸時代後期の画家・勤皇家・浮田 一蕙(うきた-いっけい、1795-1859)。男性。姓は豊臣、初名は公信、可為(よしため)、通称は内蔵輔、号は為牛、一蕙斎、昔男精舎など。京都の生まれ。宇喜多秀家の後裔と自称した。田中訥言(たなか-とつげん)に師事し、やまと絵の復興に努めた。1853年、ペリー来航時、「神風夷艦を覆するの図」で攘夷論を説く。1858年、絶筆「婚怪草紙絵巻」は、皇女和宮降嫁事件を風刺した。安政の大獄で子・可成とともに捕らえられ江戸で投獄された。1859年、釈放の後、京都で病没した。65歳。 代表作は「子日遊図屏風(ねのひあそびずびょうぶ)」、「大堰川舟遊図屏風」など。詩文、和歌、書道、有職故実にも通じた。 ◆茶室 ◈ 客殿に江戸時代中期、作者不詳の五畳半の茶室がある。向板入り。 ◈ 書院の「高松軒」に、上段の間のある座敷(十二畳)、八畳台目の座敷がある。北奥の三畳台目の茶室は、小堀「遠州別好の席(えんしゅうべつごのみのせき)」といわれる。大規模な造りになっている。天井、間取り、入口が複雑な造りになる。「鎖の間」がある。躙口へは、塀の間の細い露地に屋根をかけている。二畳がある。 ◆障壁画 本堂上間に、江戸時代後期の宇喜多一蕙(うきた-いっけい、1795-1859)作の「長篠合戦の図」がある。奥平信昌の武勲を描く。 奥平は、安土・桃山時代、1575年の長篠の戦で、武田勝頼の大軍より三河長篠城に1カ月あまり籠城して守り、織田信長の援軍により勝利した。 ◆文化財 ◈ 絹本墨画「山水図」は、江戸時代(18世紀)の曾我蕭白(そが-しょうはく、1730-1781)筆による。 ◈ 紙本墨画「牧童吹笛図」は、江戸時代の長澤芦雪(ながさわ-ろせつ、1754-1799)筆による。 ◈ 梵鐘は、奥平信昌の13回忌にその子・忠明の寄進による。三江の銘が入る。 ◆庭園 本堂前に大規模な庭園がある。心字池のある池泉観賞(座観)式で、江戸時代中期の作庭とみられる。作庭者は不明。 背後に上下2段、高めの直線的な生垣があり、これらの角刈込が2本の水平線を引いている。右手の生垣は一段高くなっている。生垣奥の樹木、建仁寺三門、東山も借景として取り入れた。生垣前、池の周囲には、灯籠、松などの樹木、丸刈込など多くの植栽があり、霧島ツツジ、皐月、サルスベリ、萩などがも見られる。前景に苔、白砂が敷かれている。2000年、中根史郎(1950-2004)により池の護岸、池底の改修が施されている。 ◆墓 ◈ 奥平家の霊屋がある。信昌・その妻・亀姫が葬られている。その背後の小祠に信昌の父・貞能、祖父・貞勝が葬られている。 安土・桃山時代、1599年に没した貞能の墓は、当初、建仁寺に葬られた。安土・桃山時代、1600年旧9月22日に、信昌が初代京都所司代の時、関ヶ原の戦いから逃れ本願寺(西本願寺)に潜伏していた西軍・安国寺恵瓊を捕えた。その後、恵瓊は六条河原で斬首された。恵瓊は、建仁寺224世であり、方丈再建などを手掛けていた。 このため信昌は、父・貞能の墓所として新たに山内に塔頭・久昌院を建立し、墓所を移した。なお、江戸時代前期、1615年に信昌は加納(岐阜県)で亡くなり、葬儀は三江紹益が赴き執り行った。 ◈ 以下の2基の墓石は、 南画家・富岡鉄斎(1837-1924)により竹林中で発見され、改葬されたという。 赤松則村の墓石には「幻空」と刻まれている。卵塔、高さ1m。 雪村友梅の墓がある。宝篋印塔、高さ2m。 *普段は非公開 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『京都・山城寺院神社大事典』、『建仁寺』、『京都の禅寺散歩』、『建仁寺 建仁寺と栄西禅師』、『旧版 古寺巡礼京都 6 建仁寺』、『昭和京都名所図会 2 洛東 下』、『京都戦国武将の寺をゆく』、『第51回非公開文化財特別公開ガイドブック』 、『週刊 日本庭園をゆく 22』、『京都秘蔵の庭』、『京の茶室 東山編』、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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