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西来院 〔建仁寺〕 (京都市東山区) Seirai-in Temple |
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西来院 | 西来院 |
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![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 「甘露門」の扁額 ![]() ![]() 旧庫裡前 ![]() ![]() 旧庫裡前 ![]() ![]() ![]() 「漸入佳境」の扁額 ![]() ![]() 庫裡 ![]() 庫裡 ![]() 庫裡 ![]() 庭園「九華青蓮」 ![]() 九華青蓮 ![]() 九華青蓮 ![]() 九華青蓮 ![]() 方丈(本堂) ![]() 方丈 ![]() 方丈 ![]() 方丈 ![]() 方丈、「圓?鑑」の扁額 ![]() 方丈、「蘭溪道隆坐像」 ![]() 方丈、蘭溪道隆の木製頭部、説明板より ![]() 方丈、「白龍図」 ![]() 方丈、「白龍図」 ![]() 方丈、「白龍図」 ![]() 庭園「峨眉乗雲」 ![]() 峨眉乗雲 ![]() 峨眉乗雲 ![]() 峨眉乗雲 ![]() 峨眉乗雲 ![]() 峨眉乗雲 ![]() 峨眉乗雲 ![]() 方丈の桟 ![]() 方丈の桟 ![]() 方丈東の庭園 ![]() 方丈東の庭園 ![]() 方丈東の庭園 ![]() 坪庭「中庭」 ![]() 中庭 ![]() 中庭 ![]() 中庭 ![]() 中庭、石器「円宗」 ![]() 中庭、円宗内の蘭の花弁 ![]() 中庭、 ![]() 中庭 ![]() 旧坪庭 ![]() 屏風「唐獅子図屏風」 ![]() 「俳句涅槃図」 ![]() 「俳句涅槃図」、聖徳太子、清少納言、ジョン・レノン、オノ・ヨーコなど ![]() 「俳句涅槃図」、アインシュタイン ![]() ![]() ![]() ![]() 金屏風「登竜門」 |
建仁寺境内の北東に塔頭・西来院(せいらい-いん/さいらい-いん)はある。建仁寺11世の「蘭溪道隆(らんけい-どうりゅう)の寺」として知られた。開祖の名に因み「蘭の寺」と新たに謳われている。 臨済宗建仁寺派。本尊は地蔵菩薩。 ◆歴史年表 室町時代、応永年間(1394-1427)、蘭渓道隆(らんけい-どうりゅう)により創建された。その住持寺になる。また、同年間、道隆4世法孫・「大宗□盛」が、清本流を再建し「西来院」に号を改めたという。以後、輪番寺院になる。 1454年、武将・畠山持国が一時寓居する。 応仁-天文年間(1467-1555)、類焼した。 安土・桃山時代-江戸時代、慶長年間(1596-1615)、再建される。(『坊目誌』) 江戸時代、1677年、現在の本堂が再建された。 1683年頃、曹洞宗の面山瑞方(めんざん-ずいほう)が一時寓居する。 江戸時代末期以降、専任住職を置く。 近代、1872年、普光院が合併された。 現代、2023年より、蘭渓道隆750年遠忌に向け「令和の大改修」が始まる。 2024年、3月、本堂・庭園などの大改修が終わり一般公開が始まる。 2028年、蘭渓道隆750年遠忌を迎える。 ◆蘭溪 道隆 鎌倉時代前期-中期の禅僧・蘭溪 道隆(らんけい-どうりゅう、1213-1278)。男性。俗姓は冉(ぜん)、諡号は大覚禅師。南宋の生まれ。13歳で出家し、無準師範(ぶしゅん-しばん/むじゅん-しばん)、北礀居簡(ほっかん -きょかん)、無明慧性(むみょう- えしょう)の法を嗣ぐ。1246年、入宋していた泉涌寺僧・月翁智鏡(がっとう-ちきょう)により来日した。筑前・円覚寺、泉涌寺の来迎院、鎌倉・寿福寺などに寓居した。執権・北条時頼の帰依を受け、1253年、時頼が建立した建長寺の開山になる。元の密偵の嫌疑により伊豆に逃れ、修禅寺の改宗を行う。1259年、後嵯峨上皇(第88代)の詔により建仁寺に入り11世、兼宗禅から臨済禅道場に改める。「建仁寺」の寺号が第89代・後深草天皇の諱(いみな)、久仁(ひさひと)の「仁」に重なることから「仁」を避け、「建寧寺」に改めた。鎌倉・寿福寺、鎌倉・禅興寺などの住持を歴任した。一時、甲斐国に配流され、東光寺などを再興する。再び建長寺に帰り同寺で没した。著『大覚禅師語録』。66歳。 大覚派の祖。栄西の再来といわれた。 ◆明窓 宗鑑 鎌倉時代中期-後期の臨済宗の僧・明窓 宗鑑(みょうそう-そうかん、1234-1318)。詳細不明。男性。諡号は明覚禅師。蘭渓道隆(らんけい-どうりゅう)の法嗣になった。武蔵(埼玉県)・東漸寺、建仁寺の住持になる。85歳。 ◆大宗 □盛 室町時代前期-後期の禅僧・大宗□盛(?-?)。詳細不明。男性。蘭渓道隆(らんけい-どうりゅう)の4世法孫にあたる。応永年間(1394-1427)、清本流を再建し「西来院」に号を改めたという。以後、当院は輪番寺院になる。 ◆畠山 持国 室町時代前期-中期の武将・畠山 持国(はたけやま-もちくに、1398-1455)。男性。父・満家。父没後、家督を継ぎ河内・紀伊・越中・山城守護職を得る。1441年、将軍・足利義教の勘気を受け河内に出奔した。家督は異母弟・持永に与えられた。だが、義教暗殺後、復帰する。1442年、対立した管領・細川持之の病没後、管領に任じられた。以後、細川家との対立を深める。弟・持富を家督後継者としながら、1446年、実子・義就に変えたため、畠山家分裂の因になる。58歳。 家督争いの最中の1445年、建仁寺・西来院に一時寓居している。かつて、安井(東山区)辺に供養塔があったという。 ◆康乗 江戸時代前期の仏師・康乗(1644-1689)。詳細不明。男性。父・康知。京都25代・七条仏師(七条左京家)。1662年、法橋に補された。この頃から東大寺大仏師職の要職にあり、将軍家・皇室に関係する仏像を多く制作した。1664年、江戸・寛永寺の釈迦如来坐像を造立する。康乗には後嗣がおらず、仏師・康祐の子・康慶を養子に迎えた。 ◆面山 瑞方 江戸時代前期-中期の曹洞宗の僧・面山 瑞方(めんざん-ずいほう、1683-1769)。男性。肥後(熊本県)の生まれ。父・今村玄珍。16歳で熊本流長院・遼雲古峰(りょううん-こほう)について得度した。21歳で江戸芝・青松寺に住し、卍山道白(まんざん-どうはく)、徳翁良高(とくおう-りょうこう)を知る。仙台・泰心院の損翁宗益(そんのう-しゅうえき)に従い、後に仏祖正伝菩薩戒を授けられた。1705年より関東遊行した。相州(神奈川県)老梅庵に1000日間籠り、打坐、『正法眼蔵』を学ぶ。1706年、師・損翁の没後各地を遊行する。1707年、相模・老梅庵、その後、常陸・東昌寺、1717年、肥後・禅定寺、1729年、若狭・空印寺などに移る。1741年、若狭・永福庵で退棲した。建仁寺・西来庵で亡くなる。曹洞宗であることから遺骸が問題視され、1769年、宗仙寺の寿昌庵に移された。著『正法眼蔵渉典録』10巻、『面山広録』全26巻など多数。87歳。 学僧であり、著作は江戸時代以降の曹洞宗学の基礎になる。反檗派だった。綿密、懇切丁寧な提唱から「婆々面山」と讃えられた。 ◆陳漫 現代の中国人のビジュアルアーティスト・陳漫(チェン・マン,Chen Man,1980-)。女性。陈漫。文革期に両親が移り住んだモンゴル自治区の生まれ。その後、北京・胡同(フートン)で育つ。2001年、中央美術学院でグラフィックデザイン・写真を専攻した。2003年より、上海のファッション誌『VISION』の表紙連作写真を発表し、中国雑誌史上最もユニークなカバーイメージと評価された。2005年、美術学院を卒業する。その後、様々なファッション雑誌の表紙を制作する。20代前半に「チャイナ・ドリーム」を実現させた「80後(パーリンホウ、一人っ子政策世代)」の旗手になる。2012年、上海のDior and Art展示の写真が物議を醸した。 現代的な美と中国の伝統文化との融合を試みる。写真家であり、写真は「絵画の拡張機能」として捉えている。クリエイティブ・ディレクターであり、グラフィックデザイン、水墨画、油絵、映画、インスタレーション、デジタルアートなど多角的に表現し活躍する。北京のスタジオ「Studio 6」では、各国のブランド広告キャンペーンを制作している。主な展覧会は、東京、モスクワ、ミネアポリス、パリ、ロンドン、ロサンゼルス、香港、北京、バンコク、シンガポール、デンバーなどで開催されている。 中国雑誌の『VOGUE』『ELLE』『Harper's BAZAAR』『Marie Claire』『COSMOPOLITAN』『Esquire』、イギリスの『NYLON』『SPORT & STREET』で活躍している。作品は、ロンドンのヴィクトリア・アンド・アルバート博物館、北京の今日美術館などに収蔵されている。 ◆黛 まどか 現代の俳人・黛 まどか (まゆずみ-まどか、1962-)。女性。神奈川県の生まれ。1994年、『B面の夏』50句で第40回角川俳句賞奨励賞を受賞し、同年、初句集『B面の夏』を刊行した。1996年、俳句誌「月刊ヘップバーン」を創刊・主宰した。1997年、マドモアゼル・パルファム賞(文化部門)を受賞する。2024年、句集『北落師門』で第16回文學の森賞大賞を受賞する。2002年、句集『京都の恋』で第2回山本健吉文学賞を受賞した。2010年-2011年、文化庁「文化交流使」としてパリを拠点に欧州で活動した。2009年・2011年、台本を担当したオペラ「万葉集」が初演される。2014年、同オペラ「滝の白糸」が初演された。著『京都の恋』『忘れ貝』など多数。北里大学・京都橘大学・昭和女子大学客員教授。 ◆木村 英輝 現代の壁画絵師・木村 英輝(きむら-ひでき、1942-)男性。大阪府泉大津市の生まれ。1961年、京都市立美術大学図案科(現・京都市立芸術大学)に入学した。 在学中に企画会社「AAP」でアルバイトを始め、卒業後もそのまま就職する。1966年-1970年、京都市立芸術大学ヴィジュアルデザイン科の講師を勤める。1967年 、山形不可止など同大卒業生たちに呼びかけ、広告企画会社「RR(Representative Resu)」を設立した。1968年、京都会館で黎明期のロックコンサート TOO MUCH をプロデュースし、日本初のロック・プロデューサーになった。その後も数々のロックコンサートに関わる。1987年、世界歴史都市博覧会総合プロデュース、1994年、建都1200年記念広場をプロデュースした。2001年、還暦を迎え壁画制作を始め、以来、手掛けた壁画は国内外で250カ所を超える。代表作は「青蓮院門跡華頂殿襖絵」、「マツダスタジアムコンコース108折の鯉」など、作品集に『生きる儘』『無我夢中』など。 ◆中根 行宏 現代の造園家・中根 行宏(なかね-ゆきひろ、1979-)。男性。京都の生まれ。父・中根史郎の長男。祖父・中根金作。弟・行宏。2002年、東京農業大学地域環境科学部造園科学科を卒業後、祖父・金作が開設した「中根庭園研究所(株)」に入所した。2004年より、アメリカ合衆国州立オレゴン大学哲学科に入学し、2006年、同大学大学院造園学部修士課程に進学した。2008年、修士課程を卒業する。2016年より、京都市立芸術大学美術学部デザイン科環境デザインの非常勤講師、2023年より、武庫川女子大学建築学部景観建築学科の非常勤講師を勤める。現在は中根庭園研究所(株)取締役に就いている。 主な京都市での作庭は、建仁寺塔頭・霊源院庭園「鶴鳴九皐」、同塔頭・西来院庭園「峨眉乗雲」「九華青蓮」、 蓮華王院 三十三間堂「東庭 」(令和大改修、一部新庭)、 元離宮二条城南西隅櫓「アジサイ苑 」(設計・施工監理)、ほか国内外で多数ある。 ◆樂 雅臣 現代の彫刻家・樂 雅臣(らく-まさおみ、1983-)。 男性。京都市の生まれ。父・陶芸家・15代吉左衛門(樂直入[(らく-じきにゅう])。2004年以降、黒御影石の「ジンバブエブラック」を素材とし、ペリカンの嘴をモチーフとした創作が始まる。2008年、東京造形大学院美術研究領域造形研究科を修了した。以降、独自の彫刻作品を制作し、国内各地、イタリア、ベルギーなどで個展・グループ展を開く。2017年、 企画展「無限の宇宙 掌中をこえて」を京都国立近代美術館など開催した。2018年、京都市芸術新人賞を受賞する。 作品は、京都の大原三千院 、建仁寺西来院、樂美術館ほか、国内外に数多く収蔵されている。 ◆西畠 清順 現代の実業家・プラントハンター・西畠 清順(にしはた-せいじゅん、1980 -)。男性。兵庫県川西市の生まれ。1996年、 川西明峰高校入学し、野球部に在籍した。2010年-2017年、 花・植木の卸問屋「(株)花宇」取締役に就任する。2012年、 「ひとの心に植物を植える」活動「そら植物園」を開始する。2016年、 「そら植物園(株)」を設立し、代表取締役に就任した。2017年、「めざせ!世界一のクリスマスツリーPROJECT」をプロデュースした。会社は2023年、「 (株)office N seijun」に社名変更している。同年、 Forbes JAPAN カルチャープレナー30に選出された。 プラントハンターとは、日本各地・世界の植物収集し、国内外の様々な依頼・プロジェクトに応じて植物を届けることとしている。 ◆普光院 塔頭・普光院は、鎌倉時代に、開山を明窓宗鑑(1234-1318)とする。近代、1872年に、西来院に合併された。 ◆天龍図 方丈天井の水墨画「白龍図」は、2024年3月に公開された。現代の中国人ビジュアルアーティスト・陳漫(チェン・マン)の作による。上海で描き上げられ、畳54枚分に相当する。 双龍図であり、西に老龍は厳しい表情をしており、東には若い龍が描かれている。漆黒の地、白い雲間に、大胆・迫力に満ち繊細な筆遣いで2龍が描かれている。 東西13m、南北6m。 ◆庭 庭園は方丈を中心として四方に4庭がある。このうち3庭には、当院の「蘭の寺」の名にふさわしく、プラントハンター・西畠清順により集められた約1200株ほどの和蘭(花期4月下旬/5月頃-)の株が植栽されている。 ◈ 「九華青蓮(きゅうか-しょうれん)」は、玄関門の甘露門、庫裡・玄関前、中門までに展開している。現代、2024年に中根庭園研究所の中根行宏・直紀兄弟により全面改修され、1カ月半ほどで作庭された。 枯山水庭園であり、白い土塀を背後にして、苔地、築山、敷石、石組、植込み・植栽などから構成されている。緩やかな築山には、徳島産の阿波青石9石が配されている。学術名は緑泥片岩(りょくでいへんがん)であり、層状の結晶構造の珪酸塩(けいさんえん)鉱物になる。緑色か黒緑色をしており、ガラス光沢・真珠光沢があり、うろこ状・葉片状をしている。石は、釈迦如来の瞳の色と蓮の花色に重ねて選定された。石組は中央に釈迦如来を中心に据えており、石で蓮の花が開いている様を表現している。作庭にあたり、西来院住持・雲林院宗碩(うんりんいん-そうせき)、中根らは実際に現地を訪れ石探しを行ったという。ツツジの植栽などがある。 ◈ 方丈南側の「峨眉乗雲(がび-じょううん)」は、現代、2024年に中根庭園研究所の中根兄弟により作庭された。 枯山水庭園になっており、白砂、なだらかな苔地、植栽などからなる。四川省出身の当院開祖・蘭渓道隆が修業した中国の霊山・峨眉山(がび-さん)の景色から着想された。苔の築山は山並みに、砂紋引かれた白砂は沸き立つ雲に見立てられている。作庭にあたり、西来院住持、中根らは実際に現地を訪ねている。現地から運び込まれた3巨石が配され、これらは、中国仏教協会が奉納したという。 カエデの枝が庭面に延びており、紅葉の頃に彩を添える。日本原産の雲龍椿の植栽がある。雲竜が昇天するように、枝が自然にうねりながら伸びる品種になる。花は赤色の一重で筒咲きになる。 なお、方丈の東には、狭く細長い庭面に源氏雲様の苔地、白砂、石などによる枯山水式庭園が組まれている。 ◈「中庭」は、方丈の西側にある坪庭になる。現代、2024年に中根庭園研究所の中根兄弟により作庭された。閉じられた空間に、白砂(白川砂)が敷かれ、涼やかな亀甲竹の竹林の植栽がある。白砂には西畠により奉納された和蘭が植えられている。和蘭とは、東洋蘭と洋蘭系シンビシンビジュームの交配で作られた中型系シンビジュームのうち、より東洋蘭に近い形状をした個体をいう。晩春から初夏にかけて紫色の花々が咲き誇る。 庭面には、彫刻家・樂雅臣の奉納による正円の石器「円宗」が据えられ、水が張られ蘭の花弁が浸されている。 ◈「裏庭」は方丈の裏にある。一般公開されていない。苔地、白砂、飛石、植栽、竹垣などで構成されている。 ◆文化財 ◈ 「蘭溪道隆坐像」(像高68cm)は、銘により江戸時代前期、1676年に仏師・康乗(こうじょう)作による。像内の底部に蘭溪道隆の木製頭部(30cm)が納められていた。この頭部は道隆の存命中か、没後すぐに作られたとみられている。眼窩が開き、かつて水晶の眼が嵌め込まれていたとみられている。 ◈ 安紙本墨画「織田信長朱印状」は、安土・桃山時代、1574年の作になる。 ◈「俳句涅槃図」は、現代の俳人・黛まどか(1962-)、壁画絵師・木村英輝(1942-)の共作による。涅槃図には、四季の移ろいを詠う俳句37句が短冊になり散りばめられている。 2020年秋に、黛まどかは俳句の師で父・黛執(しゅう、1930-2020)を亡くした。その喪失感の中で、毎年のように訪れていた本法寺(上京区)の長谷川等伯筆「仏涅槃図」を改めて目にした。父追悼のために、俳句で涅槃図を作ることを思い立ち、2024年秋より制作が始まった。 涅槃図の中央には、「朴(ほお)の木に 朴の花泛(う)く 月夜かな」(黛執)と、「現(うつ)し世を 抽(ぬき)んでて咲く 朴ひとつ」(黛まどか)が掲げられている。ほか、「しばらくは 花の下ゆく 花筏」(黛まどか)、「道をしへ ふつと消えたる 夕日かな」(黛まどか)など18句がある。 絵は、「いのちへのオマージュ」を題材とし、特殊な絵の具(イベントカラー)を用い、2カ月をかけて仕上げられた。臨終を迎えた釈迦の周りには、シマウマ、カメ、カバ、ワニ、ゾウ、ウマ、ウサギ、ゴリラ、サル、トラ、ウシ、シカ、タヌキ、ライオンなどが集っている。 また、政治家・聖徳太子(574-622)、歌人・清少納言(966?-1025?)、作曲家・ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770-1827)、物理学者・アルベルト・アインシュタイン(1879-1955)、映画俳優・マリリン・モンロー(1926-1962)、歌手・エルヴィス・プレスリー(1935-1977)、歌手・ジョン・レノン(1940-1980)、画家・アンディ・ウォーホル(1928-1987)、映画俳優・オードリー・ヘップバーン(1929-1993)、歌手・マイケル・ジャクソン(1958-2009)、音楽家・オノ・ヨーコ(1933-)なども描かれている。 なお、同時にロシアとウクライナ、イスラエルとパレスチナ、世界各地での戦争・紛争、貧困、差別などに苦しむ人々の鎮魂のためにも奉納された。 縦2.4m、横3m。 ◈屏風「唐獅子図屏風」は、陳漫(チェン・マン)の作による。金地に水墨で龍・獅子が大胆な筆致で描かれている。 ◈金屏風「登竜門」二曲一双は、木村英輝の作による。金地に青・黒の鮮やかな色彩で阿吽の龍が描かれている。鯉が龍の口元に集まっている。鯉が滝を上り龍になった故事が織り込まれている。 ◆喫茶去 鎌倉時代前期、1202年に建仁寺仁寺を開いた栄西(えいさい/ようさい、1141-1215)は、日本に本格的な茶の文化を伝えた。当院開祖・蘭渓道隆(らんけい-どうりゅう、1213-1278)は、日本で鎌倉武士に対して、初めて「喫茶去(きっさ-こ)」の禅語を伝えたとされている。 喫茶去の出典は、中国唐代の禅僧・趙州従諗(じょうしゅう-じゅうしん,Zhaozhou Congshen,778 - 897)の『五灯会元』趙州の章ある。趙州は寺を訪れた修行僧に対し、常にかつてこの地を訪れたことがあるかと問いかけていた。僧が肯否定しても、趙州は「喫茶去」の一語で応答した。寺の院主が不審を抱きその訳を問うと、趙州は再び「喫茶去」とのみ述べた。 一般的に「去」は助字とされ意味はなく、「まあ、お茶をおあがり」の意とされる。ただ、禅語としては、「喫茶し去れ」、「お茶を飲んでこい、飲みに行け」の意とされている。「茶堂(茶寮)に行って茶を飲み、目を覚まして出直して来い」と、相手の怠惰を叱責する言葉として使われた。 これらは、唐の禅院では既に、喫茶の風習が修行生活の中に溶け込んでいたことを示している。なお、建仁寺にもかつて茶堂が存在したという。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 西来院の各種説明板、『建仁寺』、『京都の禅寺散歩』、『建仁寺 建仁寺と栄西禅師』、『京都・山城寺院神社大事典』、『旧版 古寺巡礼京都 6 建仁寺』、『京都秘蔵の庭』 、ウェブサイト「西来院」、ウェブサイト「台東区」、ウェブサイト「24520123 研究成果報告書- KAKEN」、ウェブサイト「愛知学院大学禅研究所」、ウェブサイト「ZENzine 」、ウェブサイト「Diesel 」、ウェブサイト「黛 まどか」、ウェブサイト「木村英輝 」、ウェブサイト「樂雅臣」、ウェブサイト「新古美術なかお」、ウェブサイト「 讀賣新聞 2024年3月29日」、ウェブサイト「京都浪漫-2024年5月12日-KBS京都テレビ」、ウェブサイト「産經新聞 2025年1月8日付」、ウェブサイト「湖西市新居 中根庭園を研究する会」、ウェブサイト「そら植物園」、ウェブサイト「和蘭」、ウェブサイト「徳島県」、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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