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鴨社資料館・秀穂舎・旧浅田家住宅(下鴨神社旧社家) (京都市左京区) Site of Residence of Asada Family |
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下鴨神社社家・旧浅田家住宅 | 下鴨神社社家・旧浅田家住宅 |
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![]() ![]() ![]() 華表(かびょう)門(表門) ![]() 華表門 ![]() 華表門、「鴨社資料館・秀穂舎」表札 ![]() 華表門、彫り物 ![]() 脇門 ![]() 脇門 ![]() 石人文官 ![]() 式台 ![]() 式台 ![]() 式台 ![]() 入口 ![]() 蹲踞 ![]() 茶室 ![]() 第一展示室 ![]() 太鼓橋 ![]() 水桶 ![]() 禊場、降り口 ![]() 禊場 ![]() 主庭 ![]() 主庭、蹲踞 ![]() 待合 ![]() 待合、火入れ ![]() 双葉葵 ![]() 透かし塀 ![]() 枝折戸(しおりど) ![]() 枝折戸 ![]() 御井 ![]() 御壺 ![]() 歳木 ![]() 脇を流れる泉川 ![]() 泉川 ![]() ![]() ![]() 【参照】周辺の町並 ![]() 【参照】鴨脚(いちょう)家 ![]() 【参照】鴨脚家の土塀 ![]() |
下鴨宮河町に、社家(しゃけ)の名残りという「旧浅田家住宅(きゅう-あさだけ-じゅうたく)」がある。 現在は、社家住宅が整備され「鴨社資料館・秀穂舎(かもしゃ-しりょうかん・しゅうすい-しゃ)」として一般公開されている。 ◆歴史年表 江戸時代前期、社家町が形成されたとみられる。 江戸時代中期、現在の浅田家住宅が建てられた。 1811年頃、玉田永教は、鴨脚(鴨)秀豊に家塾「秀穂舎」塾長として招かれる。 近代、明治期(1868-1912)以降、浅田家住宅の所有者が変わった。1871年、上知令で国有地になり、民家として払い下げられた。 1921年頃より、社家住宅のあった下鴨本通で土地区画整理事業として道路の拡幅・整理が行われる。多くの社家は立ち退きになる。 1922年、京都市の都市計画により下鴨に大通り建設の計画案が出される。 1945年以前、京都市長を務めた市村慶三(1884-1959)らが所有し居住した。 現代、2004年頃、空家になる。 2014年、下鴨神社は市村家遺族により、住宅・敷地一部を購入する。 2016年、9月24日、第34回式年遷宮奉祝事業の一環として、旧浅田家の整備・保存後に、鴨社資料館・秀穂舎の開館式が行われた。 ◆鴨 秀豊 江戸時代中期後期の公卿・鴨 秀豊(かも-の-ひでとよ、1756?-1837/1836)。詳細不明。男性。家名は鴨脚(いちょう)。父・秀、母・(医師・田口正胤の娘)の長男。本宮の正祝(しょう-の-はふり)を務めた。祝は、神主の指揮を受け直接に神事の執行に当たった。1793年、従三位を叙されている。 従二位・非参議。 私塾「秀穂舎(しゅうすい-しゃ)」を開き、公家・神職、町衆の子らにも門戸を開いた。 ◆玉田 永教 江戸時代中期-後期の神道家・神道講釈師・玉田 永教(たまだ-ながのり、1756-1836)。詳細不明。男性。本姓は横山、通称は主計。父・阿波徳島藩士。孫・初代・玉田玉枝斎(三矢田清三郎、弘文)。垂加神道を学び、吉田神道を学ぶ。吉田家の神学館守護職になる。1811年頃、鴨脚(鴨)秀豊に家塾「秀穂舎」塾長として招かれる。1789年-1818年頃、諸国に布教した。著『神国令』『神道講義』など。81歳。 庶民に講談という形で神道・神話について説き全国を回った。神国日本を賞賛し、賀茂真淵(かも-の-まぶち)を「姦悪国賊」と批判した。 ◆市村 慶三 近現代の官僚・政治家・市村 慶三(いちむら-けいぞう、1884-1959)。男性。京都府の生まれ。父・古川専太郎の3男。市村貞蔵の養子になる。第三高等学校を経て、1910年、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業した。同年、文官高等試験行政科試験に合格し、内務省に入り北海道庁属になる。その後、北海道庁警視、奈良県警察部長、皇宮警察長、内務省参事官兼宮内事務官、警視庁書記官・官房主事などを歴任した。1926年、福井県知事に就任し、以後、愛媛県、三重県、1931年-1935年、鹿児島県知事に就任した。1935年、京都市助役、1936年-1940年、京都市長に在任した。74歳。 鴨川・高野川治水事業を推進し、大京都振興審議会の設置、二条城の京都市移管を実現した。 ◆神像・神号 ◈「神像(しんぞう)」は神棚の間に祀られている。宮大工の神工(じんく)が、下鴨神社式年遷宮造替時の本宮古材を用いて制作した。 御供えは高坏(たかつき、皿のように浅い器を脚台上にのせた形状の器)、安南(あんなん、御神酒・御水を注ぐ祭具)になる。 ◈「御神号(ごしんごう)」の「賀茂大明 神 賀茂御祖皇太神宮 比良木大明神」は、神棚の間の床の間に掛けられている。 床には漆塗り台盤に鴨氏譜を置く。 ◆建築 現在の旧浅田家住宅は、江戸時代中期に建てられた。伝統的な社家建築であり、社家建築の現存例は全国でも数少ない。屋敷は400坪(1322㎡)ほどあり、神棚の間・画室・住居に分けられていた。 整備により応接室・座敷などが保存され、残りは解体撤去された。旧浅田家は、上賀茂神社の社家・梅辻家住宅(京都市有形文化財)の意匠とも共通する部分があるという。 木造2階建、建延べ面積90㎡、敷地330㎡。 ◈「華表(かびょう/かひょう)門」は、表門であり鳥居様の形の上に瓦葺の屋根が載る。神社の鳥居の意味がある。下鴨神社社家に多いという。冠木(笠木)上に鴨、左右に双葉葵の意匠彫刻が施されている。 華表は、「桓表」、「和(か)表」ともいう。宮殿・廟宇・陵墓の前に立てられる石柱、また、柱上に十字形の横木をつけた標木であり、軍門・墓門・聖所に立てた。日本では華表に「とりい」の訓をつけたともいう。 ◈「脇門(わきもん)」は、表門の南に開く。 ◈「待合(まちあい)は、表門の脇に設えられている。主人に従ってきた随員が、椅子に腰かけて主人の用が済むのを待った。格子を通して式台内も見通せるようになっている。煙管煙草(きせる-たばこ)用の火入れが置かれている。 なお、待合とは扈従(こしょう/こじゅう/こそう)とも呼び、貴人に付き従うことから随員を意味した。また、扈従(こしょう)は、「相引(あいびき)」という折り畳み式の椅子のことも意味した。茶会では客が待合せする所であり、寄付(よりつき)などとも呼ばれている。 ◈「式台(しきだい)」は、2間の構えになっていた。鴨社画工司の官位は、五位・六位だったことによるという。 ◈「神棚の間(かみだなのま)」は、入口すぐにある。家でも遥拝ができるように設けられた。 ◈「次の間」はケハイの間、閼伽棚(あかだな)の間とも呼ばれる。 ◈ほか、応接室、座敷、茶室、第一展示室、第二展示室などがある。 ◈建物の基礎には加茂石が用いられている。 ◆調度など 各部屋には、社家で使用されていた様々な調度などの展示物がある。 ◈式台には、鞍・鞍掛、槍・刺股(さすまた、長柄の寄道具といわれた武器の一種)、袖搦/袖絡(そでがらみ、長柄の捕り物道具の一種)、沓(くつ、祭場用)、皮鞋(かわぐつ、戦場用)、鎖帷子(くさりかたびら、細かい鎖を編んだ着物、略式の防具)、雨傘、提灯などがある。 ◈次の間の閼伽棚(あかだな)には、御神酒・御水用の安南(あんなん)、御花の壺、御供えの土器類・俎板(まないた)が揃えられている。 衣桁(いこう、衣服を掛ける家具)には、雨儀用の布衣(ほい/ふい、布製の平服・常服)が掛けられている。ツヅレには祭事用の布衣が納められている。冠台に冠、烏帽子は烏帽子筥(はこ、折櫃[おりびつ、檜の薄板を折り曲げた方形・角切りの箱])に置かれている。 ◆石人像・井戸など 門前・玄関付近には社家にあった複数の展示物がある。 ◈表門脇に石人像「石人文官(せきじん-ぶんかん)」1体が立てられている。一帯が鴨社公文所・学問所の関係者屋敷町だった標として立てられている。発掘品の石像を立てる慣わしがあったという。内侍像であり、冠の波形は粗く、顔の彫りは浅い。対の像はない。高さ125㎝、最大幅35㎝。 石人像は朝鮮渡来であり幾種かあった。文人石・武人石・長明燈・望柱石は、墓域を装飾するために立てられた。石塔は寺院内に立てられ、内部に仏舎利・経典などを納めていた。神道碑は、墓域入口に置かれ、埋葬者の生前事蹟を記したものだった。 ◈「歳木(としぎ)」は、表門内に置かれている。歳神を招く神籬(ひもろぎ)であり、元旦を祝い年神を祀る飾り木にもなった。 また、鬼木(おにぎ)、御新木(おにゅうぎ)とも呼ばれ、魔除けの呪物とされた。正月初めに門松のかげに疵のない椎・榎などの木をとり、末に葉を残して門に寄せかけて置いた。 ◈「御井(みい)」は、屋敷内の神々に供える御水を汲むための井戸になる。 ◈「水棹(みさお)」は、袖塀内の軒先に掛けられている。御水を飲む際の用具になる。 ◈「御壺(おつぶ)」は、御井の脇にあり非常用に使用する水壺をいう。 ◈「手水鉢(ちょうずばち)」には、双葉葵が刻まれている。 ◆文化財 秀穂舎(下鴨神社)の杉戸絵として「虎」、筆・原在泉(1849-1916)の「石見の瀬見の小川(鴨川)」、「武人」、「矢立て鴨」、「鹿」、「白鷹」などがある。 ◆禊場 「禊場(みそぎば)」は、敷地の北側に流れる泉川の畔にある。東からの川の流れに降り口を設けている。手前には太鼓橋が架けられ、建物と降り口を繋ぐ。此の世と清浄界との端であり結界を意味している。 下鴨神社神官・氏人の家には、祭神・家の神々が祀られていた。これらの家の祭事と本宮の祭祀に奉仕するために社家では、川畔に禊場を設けた。ここでの禊を終えた後に祭事・祭祀に携わっていた。 ◆社家 社家は、神社に代々仕えた神職の家柄をいう。下鴨神社の社家は、かつて相国寺(上京区)・百万遍(左京区)付近に住んだという。大きな屋敷が建ち、鴨川・高野川を渡り下鴨神社に仕えていた。ただ、川の氾濫のたびに橋が流され不便を強いられた。 室町時代後期、応仁・文明の乱(1467-1477)後、江戸時代前期に、神社の西(現在の下鴨松原町・森本町・西林町付近)に、糺の森・松林を切り開いて社家町(しゃけ-まち)が形成される。340家、また江戸時代には50家ほどの社家があったという。社家町は、通り・土塀・水路・橋・門構えなどで構成されていた。 社家町は糺の森の西側にあり、社家町通(幅4.5m、南北は現在の下鴨本通のバス停・下鴨神社-河合神社間、100mほど)の両側にあった。通り東側には土塀が続き、小川が流れていた。川には小橋が架けられ、各社家屋敷に通じていた。 幕末に製作されたとみられる「旧大絵図」によると、社家の多くは、主に現在の松原町北側・森元町北側・西林町に集住し、4種の役職(社司・氏人・膳部・駆人)があった。社司は主に社家町南西部・南部(現在の下鴨本通・中通の間、松原町)に広大な敷地を有していた。文化人は下鴨神社参道南端に集住していた。 近代、1868年の神職世襲廃止令により、社家制度が廃止になる。同年の上知令により、神社社殿周囲以外の全ては国に上知された。神官・氏人・社職・公文所などの大半は神社から離散する。旧社家の多くは東京に移転した。 1922年に、京都市の都市計画により、下鴨での大通り建設の計画案が出される。社家町の中央を通る道路建設ため、住民は糺の森などへの計画変更を願い出る。市の計画に変更はなく、周辺の土地区画整理工事が進められる。1930年/1934年に北大路通が完成し、1928年/1939年-1942年の下鴨本通(幅22m、南北1.7km)の道路拡張工事などが進み、住宅地(葵学区)が開発される。社家町・社家町通は消滅し、ほとんどの旧社家も解体された。 現在、下鴨神社の社家町の名残として、鴨脚(いちょう)家(左京区下鴨宮河町)、廣庭家、関係諸役人住宅などが残っている。ただ、いずれの建物も近代以降に建て替えられている。 現代、2016年9月24日に、第34回式年遷宮奉祝事業の一環として、旧浅田家の整備・保存が行われた。鴨社資料館・秀穂舎の開館式が行われる。先に再興されていた京都学問所(旧鴨社公文所・学問所)の活動拠点として、秀穂舎も再興された。以後、神道文化の研究、慣習、伝承などを資料展示・講座などで学ぶ場になっている。 ◆学問所・浅田家 学問所は、下鴨神社境内の西側にあり、現在の下鴨本通との間に位置していた。 近代、1868年まで下鴨神社は、鴨の氏人を中心に組織された。式年遷宮を繰り返して行うためには、社殿建築技術、各種調度品などの工芸調整技術の継承・後継者養成のための機関が必要とされた。また、葵祭などの年中祭祀のほか、文化・歴史の研究・修練・指導のための機関も必要とされた。これらの任を担っていたのが鴨社公文所・学問所だった。 文書・典籍・史資料・式年遷宮の制に伴う絵師、文書司、神工、そのほか、塗師・金工、檜皮工、竹工、壁工、鍛冶工、布縫製機械、楽器工、衣紋調度、化粧具、医療調合、木版術、田圃・畠栽培技術など、様々な社職職工の技術集団があった。さらに、神供調理の厨房集団、神官・祭事進行の神殿守、音楽伝承の人長・忌子女などの氏人集団も属した。これらの技術は、一子相伝により継承されていた。さらに、地方分霊の鴨神社子弟の養成のために、歴史・地理・暦学・歌学・鴨神道などの教育機関としても機能し、祭祀資料の保存・研究も行った。 学問所内に鴨社画工司(絵所預)があり、絵師として浅田家・大崎家・淵家・榊家らの氏人が所属した。書写の実績として、平安時代の『鴨社古圃』『御生神事絵巻』、そのほか『葵祭絵巻』『鴨臨時祭絵巻』『孝明天皇行幸絵巻』などがある。浅田家も学問所に所属し、祭事などを記録する絵所の絵師を務めていた。屋敷は、下鴨神社参道の脇に位置していた。 ◆秀穂舎 江戸時代中期、1811年頃に賀茂御祖神社公文所司・祝(はふり)・鴨脚(鴨)秀豊は、玉田永教を私設「秀穂舎塾(しゅうすい-しゃ-じゅく)」の塾長に招いた。 「旧大絵図」によれば、塾の教授宅は、高野川畔、下川原町の旧唐崎社の土橋を渡り、下鴨神社表参道脇の鳥居を入った付近に、短冊形地割で建ち並んでいた。浅田家のほか、玉田永三郎(永教)、永教の長男・玉田専左衛門(永辰)、永辰の長男・栄助(永久)、永辰の子・三矢田清三郎(弘文)などの屋敷が建ち並んでいた。 清三郎の屋敷・秀穂舎塾では、敷地内に天満宮が祀られていたとみられている。永教の大坂時代の儒学塾にも、天神を祀っていたという。 京都の秀穂舎塾で読み書き・算盤などを学ぶ子どもらは、下鴨神社の摂社・比良木神社の秋祭りに献書していた。この慣わしは、現在も御火焚祭で「天満書」と称され続いている。 近代、1868年の神職世襲廃止令により、社家制度は廃止になる。明治新政府の神祇官は、下鴨神社神職として6家を残した。教務省は、社頭での神道講義を命じる。当初は秀穂舎塾の玉田永直(千秋、後に講談家)、永久の養子・永健(後に講談家)、清三郎(弘文)、清三郎の子・永慶(長秋)らが担った。 その後、秀穂舎塾は解散になり、教授らは講釈師玉田流を創設した。玉田派の神道講釈師は大阪講釈界で活躍する。玉田玉枝斎(永教の孫、三矢田清三郎)、玉秀斎(永教の孫)、玉芳斎(玉秀斎の子、永教の曾孫)が人気を博している。 3代(2代ではないという)・玉田玉秀斎(加藤万次郎、1856-1919)の口演速記は、近代、1911年に小型講談本「立川文庫」を生む。 *開館は変則的、建物内の写真撮影は禁止。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 パンフレット「鴨社資料館 秀穂舎」、『親と子の下鴨風土記』、『20世紀における京都の文化と景観に関する学際的研究-下鴨・北山地域を中心に』、ウェブサイト「京都の旧社家町に関する研究-下鴨神社周辺地域を中心として」、『賀茂文化 第5号』、『賀茂文化 第11号』、「京都新聞2016年9月24日付」、『旅の手帖_2017年8月号』、『近世末期下鴨神社における社家町を含む周辺地域の構成(抜刷り)』、ウェブサイト「鴨〔絶家・社家〕-公卿類別譜(公家の歴史)」、ウェブサイト「朝鮮石人像を訪ねて 66-むくげ通信 304 号(1)」、「朝鮮石人像を訪ねて 57 - 神戸学生青年センター」、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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