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河井寛次郎記念館 (京都市東山区) Kawai, Kanjiro Memorial Museum |
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河井寛次郎記念館 | 河井寛次郎記念館 |
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![]() ![]() 「河井寛次郎記念館」の表札、棟方志功の書、黒田辰秋制作 ![]() 主屋、竹矢来 ![]() 主屋 ![]() 主屋、板の間、囲炉裏、臼の椅子 ![]() 主屋、囲炉裏 ![]() 主屋、囲炉裏 ![]() 主屋 ![]() 主屋、天井 ![]() 主屋、南東の和室 ![]() 主屋、電灯笠 ![]() 主屋1階、北東の和室 ![]() 主屋1階、神棚のある家具、その右に額「民族造形研蒐点」 ![]() 主屋1階 ![]() 主屋、吹抜天井 ![]() 主屋1階、北西の和室 ![]() 主屋1階、箱階段 ![]() 主屋1階 ![]() 主屋2階、北西の居間 ![]() 主屋2階、書斎 ![]() 主屋2階、書斎 ![]() 主屋2階、書斎、河井寛次郎の言葉「仕事のうた」 ![]() ![]() 主屋2階、書斎、椅子と机 ![]() 主屋2階、中庭、陳列室 ![]() 主屋2階 ![]() 主屋2階 ![]() 主屋2階、1955年頃の木彫像のブロンズ ![]() 主屋2階、ブロンズ ![]() 主屋2階、木彫像 ![]() 主屋2階、上段の間 ![]() 主屋2階、猫の木彫像、1927年頃 ![]() 廊下 ![]() ![]() 廊下、陶製洗面台 ![]() 陳列室(右)、茶室 ![]() 陳列室 ![]() 陳列室、真鍮煙管 ![]() 陳列室、河井寛次郎の下絵 ![]() 陳列室、河井寛次郎著『火の誓ひ』 ![]() 陳列室、1956年の「練上鉢」 ![]() 中庭 ![]() 中庭、丸石 ![]() 茶室(左)、陳列室 ![]() 茶室 ![]() ![]() 井戸 ![]() 素焼窯 ![]() ![]() 陶房 ![]() 陶房、作品展示室 ![]() 陶房、河井寛次郎の作品 ![]() 陶房、板の間 ![]() 陶房、けろくろ ![]() 陶房、道具類 ![]() 陶房、1945年頃の河井寛次郎の「毛筆日記」 ![]() 登り窯 ![]() 登り窯、側面、傾斜地を利用して窯が造られている。 ![]() 登り窯、2つの焚き口 ![]() 登り窯、燃成室内 ![]() 登り窯、燃成室内 ![]() 鐘鋳町(かねい-ちょう)の地名 |
五条坂の南、鐘鋳町(かねい-ちょう)に河井寛次郎記念館(かわい-かんじろう-きねんかん)が建つ。陶芸作家・河井寛次郎は「土と炎の詩人」と称された。寛次郎が長年暮らし創作活動を行った住居が保存公開されている。 寛次郎は建物の設計を自ら手がけた。寛次郎の陶芸作品、家具、調度品、蒐集品、窯跡、関連の史資料なども公開展示されている。 「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン 1つ星観光地」に選ばれている。 ◆歴史年表 近代、1920年、河井寛次郎は五条坂の現在地にあった陶芸家・5代・清水六兵衛の持ち窯を譲り受け、住居も得て独立する。山岡千太郎の資金支援があった。窯は「鐘渓窯(しょうけいよう)」と名付けられた。 1924年、濱田が一時、河井家に滞在する。 1929年頃、陶房が完成する。 1934年、室戸台風により家屋が倒壊した。 1937年、寛次郎自らの設計により自宅(現在の記念館)の主屋、小間、廊下などが建てられた。 現代、1966年、寛次郎は亡くなる。 1970年、鐘渓窯の廃止が決定した。 1973年、河井寛次郎記念館が開館した。 ◆河井 寛次郎 近現代の陶芸作家・河井 寛次郎(かわい-かんじろう、1890-1966)。男性。父・島根県安来(やすぎ)町の大工・河井大三郎、母・ユキの次男。1894年、母没後、里親・山崎家の世話になる。松江中学卒業後、1910年、東京高等工業学校(現東京工業大学)窯業科入学。陶芸家・板谷波山の指導を受けた。1911年、バーナード・リーチを知る。1913年、病により休学、郷里で静養する。濱田庄司を知る。1914年、東京高等工業学校卒業後、京都市陶磁器試験場に入所、平野耕輔、小森忍の指導を受けた。後輩・濱田と釉薬の研究などを行う。1917年、5代・清水六兵衛の工房顧問になり、釉薬を提供する。濱田と沖縄、九州の窯を巡る。1919年、濱田と朝鮮、満州を旅行した。1920年、5代・清水六兵衛の窯を譲り受け、「鐘渓窯」と名付けた。住居、工房を設ける。京都の宮大工の娘・三上やす(つね)と結婚する。この頃、細川護立、岩崎小弥太を知る。1921年、「第一回創作陶磁展」を東京、大阪で開催した。高島屋の川勝堅一、柳宗悦を知る。以来、大阪、東京の高島屋で作品を発表した。1923年、黒田勝美、岩井武俊を知る。1924年、黒田辰秋を知る。1925年、柳、濱田らと紀州へ木喰上人の遺跡を訪ねた。この時、「民藝(民衆の手による工芸)」を造語する。1926年、柳、濱田、富本とともに高野山西禅院で「日本民藝美術館設立趣意書」を発表。黒板勝美、内藤湖南により「河井氏後援会」が発足する。1928年、上野の東京博覧会に柳、濱田らと「日本民藝館」を出品する。1929年、高島屋の個展を開く。ロンドンで個展を開く。1931年、柳、濱田らと同人誌『工藝』発刊。柳と鳥取、島根旅行。1932年、ロンドンで個展を開く。1933年、柳、濱田と中国、九州の窯を巡る。1935年、柳と東北、柳、濱田らと中国、朝鮮、柳らと四国を旅する。この頃、硯に興味を持つ。1936年、柳、濱田と朝鮮半島を旅した。棟方志功を知る。1937年、自宅兼仕事場を自ら設計し完成させた。川勝が独断で出品した「鉄辰砂草花図壷」がパリ万国博覧会でグラン・プリを受賞する。「日本民藝館」の理事就任。1938年、娘・須也子が生まれた。1939年日本民藝協会理事と沖縄旅行。1944年、戦争により作陶できず文筆に専念する。1947年、寛次郎の詞「火の誓い」を棟方志功は板画で制作。随筆「いのちの窓」を陶土に刻んだ陶板を完成させる。1950年、松下宗琳の下彫りで手の木彫を始める。1954年、泥刷毛目の手法を産む。1955年、文化勲章を辞退。この頃、真鍮煙管の意匠を試み、安来工人手金田勝造が制作した。1957年、川勝が独断で出品した「白地草花絵扁壷」が、ミラノ・トリエンナーレ国際工芸展グラン・プリを受賞。1959年、面に興味を持つ。1960年、緑釉試作、陶彫を作る。67歳。墓は大徳寺・真珠庵(北区)にある。 釉薬を駆使し、晩年は形にも拘った。作風は三期に分けられる。前期は中国・朝鮮古陶磁を範とした時期、「中期(1927-1940)は民芸」傾注の時期、後期は民芸を脱した「造形」の時期になる。陶芸、彫刻、建築、意匠、書、詩・詞・随筆などでも作品を残した。美を単にモノだけではなく、空間、生き方も含めて捉えていた。作品の多くに銘を入れなかった。梅棹忠夫は寛次郎を「アミニズム的神像作家」と名付けた。著『いのちの窓』『火の誓い』。 ◆清水 六兵衛 近現代の陶芸家・5代・清水 六兵衛(きよみず-ろくべえ、1875-1959)。男性。幼名は栗太郎、号は祥嶺、六和(ろくわ)。父・4代・清水六兵衛の長男。1887年、幸野楳嶺に師事し、京都府立画学校を中退した。陶法を父に学ぶ。1895年、楳嶺没後、谷口香嶠(たにぐち-こうきょう)に師事する。1903年、京都市立陶磁器試験場設立により科学的釉薬、製陶法を研究した。1907年、神坂雪佳らと「佳津美会」結成する。1912年、京都遊陶園を結成し東京で展覧会を開く。1913年、5代・六兵衛を襲名した。1917年、農展出品作「青華烏瓜花瓶」一等賞を受賞する。1922年、フランス・サロン会員、1927年、帝展審査委員、1928年、マヨリカ焼(音羽焼)焼成の功により緑綬褒章受章した。1930年、帝国美術院会員、1931年、フランスのエトワール・ノワール勲章授与、1937年、帝国芸術院会員、1945年、六和と改名する。長男に6代・六兵衛を譲る。1937年、日本芸術院会員になる。1958年、日展の顧問を務めた。84歳。 ◆河井 つね 近代の女性・河井 つね(?-?)。女性。三上やす。京都の生まれ。父・宮大工棟梁。堀川高女を卒業した。1920年、河井寛次郎と結婚する。1924年、一人娘の良(須也子)を産む。河井寛次郎の所定鑑定人だった。 ◆河井 善左衛門 近代の大工・河井 善左衛門(?-1938)。男性。河井寛次郎の兄。1937年、棟梁として寛次郎住居の施工を行う。完成の翌年、安来で亡くなる。 ◆山岡 千太郎 近代の実業家・山岡 千太郎(やまおか-せんたろう、1871-1943)。男性。号は山岡山泉(さんせん)。1916年、河井寛次郎と知り合う。以後、河井の支援者になる。中国古陶磁の研究、蒐集を行う。陶芸を学び、雪舟の水墨画を模写した。久原鉱業監査役。72歳。 ◆河井 須也子 近現代の歌人・河井 須也子(かわい-すやこ、1924-2012)。女性。河井良、号は紅葩。京都の生まれ。父・河井寛次郎、母・つねの長女。1936年、同志社女学校に入学した。1946年、荒川(河井)博次と結婚する。箏曲、三弦を教えた。1989年、河井寛次郎記念館2代目館長に就任した。歌人として『風日』『紅しだれ』の同人。河井寛次郎の所定鑑定人だった。88歳。 ◆河井 博次 近現代の陶芸家・河井 博次(かわい-ひろつぐ、1919-1993)。男性。荒川博。父・京都西陣の繊維問屋・荒川傳七、母・ハルの次男。1942年、東京商科大学を卒業した。1946年、河井良(須也子)と結婚する。河井寛次郎の養嗣子になり、寛次郎とともに陶業した。1979年、信楽に仕事場を移した。日本民芸藝協会賞を受賞した。73歳。 ◆川勝 堅一 近現代の実業家・川勝 堅一(1892-1979)。男性。亀岡市の生まれ。1907年、高等小学校卒。1908年、京都高島屋に入る。1919年、高島屋東京支店宣伝部長。1921年、河井寛次郎と知り合う。1933年高島屋総支配人、1936年、高島屋取締役・支配人。1942年、常務取締役、1957年、横浜高島屋専務取締役。78歳。 1937年、パリ万国博覧会出品に寛次郎が応じず、堅一は独断で所蔵品より出品し、作品はグラン・プリを獲得した。1957年、ミラノトリエンタナーレでも同様の経緯があり、グラン・プリを獲得した。寛次郎、民芸作家の作品蒐集で知られる。京都国立近代美術館に寄贈し「川勝コレクション」(425点)と呼ばれている。 ◆濱田 庄司 近現代の陶芸家・濱田 庄司(はまだ-しょうじ、1894-1978)。男性。象二。神奈川県の生まれ。東京府立一中を経て、1913年、東京高等工業学校窯業科に入学、板谷波山に師事し、窯業の基礎科学面を学ぶ。1916年、同校卒業後、先輩・河井寛次郎と京都市立陶芸試験場で釉薬の研究を行う。柳宗悦、富本憲吉、バーナード・リーチを知る。1920年、イギリスに帰国したリーチに同行、共同しコーンウォール州セント・アイヴスに窯を開く。1923年、ロンドンで個展開催。1924年、帰国後、河井寛次郎宅に一時滞在、柳と河井の間を取り持つ。後に沖縄に移る。栃木県益子町に移る。1955年、第1回重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。1961年、日本民藝館第2代館長に就任。1964年紫綬褒章、1968年、文化勲章受章。1977年、益子参考館を開館した。83歳。 ◆筑紫 哲也 近現代のジャーナリスト・筑紫 哲也(ちくし-てつや、1935-2008)。男性。大分県の生まれ。早大卒。1934年、朝日新聞社入社。政治部記者、ワシントン特派員、編集委員。1959年、「朝日ジャーナル」編集長。1989年、TBSテレビ「ニュース23」のキャスター。2008年、日本記者クラブ賞を受賞した。73歳。 京都、寛次郎の作品、当館を愛し、年に数度訪れた。請われた色紙には、寛次郎の言葉から「手考足思」と書いた。最後は、亡くなる8カ月ほど前に訪れる。いつもの椅子に腰掛け、無言のまま1時間ほど過ごして帰った。 ◆民芸 民芸(民藝)とは、「民衆の手による工芸(Folk Craft)」を意味した。それまで、市(いち)での俗語として「上手物(じょうてもの)」に対して「下手物(げてもの)」と見下され、無視されていた日用雑器、手仕事の「用即美」に初めて光を当てた。 民芸品の定義として、身近な日常の実用性があること、機能美を持ち堅牢であること。民衆性、名もない無銘工人の手仕事であること。美を意識しない土地に根ざした地方性、多数で低価格であること。天然材料によることなどがあげられた。後年、民芸作品は工人に荷われるのではなく、個人作家の貴族趣味要素が拡大し、萌芽に見られた定義の曖昧さが露呈し混乱した。 近代、1923年、民芸運動の中心になった柳宗悦は、関東大震災後に京都に移る。その後、9年間を京都に暮らした。柳は、当初、河井の作品を「模倣」と酷評したため互いに反目する。後に、濱田庄司を介し、木喰仏を通して意気投合した。 1925年、柳、河井、濱田らは、紀州に木喰上人の遺跡を訪ねる。この時、「民芸」の用語を造語した。1926年、柳らは「日本民藝美術館設立趣意書」を発表し、民芸運動が始動する。民芸品は、雑誌『工芸』(1931-1951)に紹介された。朝鮮王朝時代の工芸品、沖縄、日本各地の江戸時代-近代の工芸品が対象になった。運動は、思想、陶芸、染織、漆器、版画、木竹工、建築分野にも広がった。1936年、東京・駒場に、拠点になる日本民藝館が設立される。民芸運動は海外にも広がりを見せている。 京都には一時期、柳、河井のほかに、富本憲吉、石黒宗麿らも移住し、これら京都以外の人々により京焼の高揚にもつながった。なお、河井の民芸運動の傾倒は、1927年-1940年頃になる。晩年の河井は民族造形を訴え、民芸に距離を置いた。 ◆建築 北側の主屋、東の陶房、南の小間(茶室)、渡り廊下、陳列室、庭などからなり、設計は河井寛二郎、施工は郷里の兄・河井善左衛門を棟梁とする大工による。大工、建具師らは泊り込んで8カ月をかけて作業を行った。 ◈「主屋」は、近代、1937年に建てられた。様式は京風町屋ではなく、飛騨、故郷の安来、朝鮮などの建築様式も取り入れられている。京都町家意匠としては、表(西面)に千本格子、矢来などを取り入れている。玄関は式台となる。2階が1階よりも張り出した「出桁造(だしけたづくり)」になり、庇は見られない。1階は、北西の出入り口より「通り土間」が通じている。現在の上がり口付近は、かつて台所になっていた。西側に和室2室、南に広間、東に2室ある。北東の一室(居間、掘り炬燵の間)には、掘り炬燵があり、食事の際などに利用された。 ◈「広間」は重厚な朝鮮張り風の板の間であり、南側は中庭に接する。2本の大黒柱が立つ。この大黒柱と梁だけは京都の木材を用い、ほかはすべて安来より運ばれた。室内床を高低の二段構成にしている。南よりに囲炉裏には自在鉤(上下左右にも移動可能)が掛る。三方を朝鮮風の床板張りの畳敷(高さ22cm)。この付近の天井は根太天井になる。柱は墨を混ぜたベンガラ塗の古色仕上げであり、一部にチョウナ仕上げを施す。部屋の各所に漆塗りの建具などが配置されている。 吹き抜けであり、吹き抜けの2階の障子窓の腰壁は立ち上がり少ない。吹き抜けの天井には滑車が付けられ、2階への資材、調度品などの搬入に用いられた。 広間の北西隅に箱階段がある。近代、1937年に濱田庄司の寄贈による。2階は、廊下、書斎、東側南に座敷(上段の間)、北に次の間(居間、下段の間、寝室)、西側にも居間がある。木造二階建、妻入の寄棟造、瓦葺。建築面積148㎡。 ◈主屋の東にある「陶房」は、近代、1929年頃に建てられたという。南の土間(現在は休憩所)、北に板の間があり、椅子式生活用の低床部、座敷生活用の高床部があり、西よりの高床部に2つの「けろくろ」を置いた。現在は、展示施設も併設されている。木造平屋建、瓦葺。建築面積54㎡。土間(現休憩室)と板間の2室からなる平屋。 板間は椅子式生活用の低床部と、座敷生活用の高床部とに分かれ、高床部に轆轤(ろくろ)を置いていた。主屋新築に先立って建設されたと伝える。室内床を二段構成とする手法は主屋の広間とも共通する。 ◈中庭を挟んで主屋の南にある「小間(茶室)」は、和室(2畳)になる。民家風の太い材料を用いている。すのこ天井、腰壁、障子戸が立てられている。北側は中庭に接している。当初は茶室として使われ、後に思索の場になった。水屋は現在は撤去されている。木造平屋建、瓦葺。建築面積11㎡。 主屋より、廊下を経て南の陳列室に繋がる。 ◆登り窯 敷地内に2つの「窯」(国・登録有形文化財)が残されている。 近代、1920年、寛次郎は5代・清水六兵衛(六和)の登り窯を買い入れ、町名「鐘鋳町」より「鐘」の一字を採り「鐘渓窯(しょうけいよう)」と名付けた。登り窯は五条坂では何軒かで用いた共同窯(寄り合い窯)になる。傾斜地を利用しており、西より東に階段状に上る形で造られている。最下部(西)に焚き口、最上部には煙出しが設けられた。第1燃成室の余熱は各室に伝わり、上に行くほど余熱効果により早く焼成できた。登り窯は、中国・朝鮮で開発され、日本では唐津焼が初めて用いた。 鐘渓窯は当初、9室の燃成室があった。現代、昭和30年代(1955-1964)半ば、燃成室の下1室を潰し、焚口を一段上げた。焚口は地面より深く掘り下げられた処にあり上下二段ある。上部は半円形(半径1.8m)、下部は長方形(縦60cm、横30cm)をしている。その間は耐火煉瓦(10cm)により仕切られている。焚口の上には、横に6つの色見孔が開けられている。8つの各燃成室の両側に、通常時の出入り口とともに、それぞれに色見孔(直径10cm)が空けられている。 素焼された作品は釉薬をかけた上で、鐘渓窯に入れられ1350度で燃成された。火は二昼夜にわたり焚かれ、2000束の松割木が投じられた。松割木は日頃は建物の表に積み上げられており、北側の細い通りより窯に運び込まれていた。寛次郎の作品は第2燃成室より多く生み出されたという。ここでは、高温により還元焼成が可能になった。現代、1971年、京都府公害防止条例が施行され、登り窯に対して届出義務・排出規制が課された。このため、1970年に窯廃止が決定している。五条坂での数少ない現存する登り窯になる。木造平屋建の上屋が架かる。制作年代は不明。耐火煉瓦造、長さ13.1m、幅4.7m。 小型の「素焼窯」は、茶室の傍に造られている。1937年頃、寛次郎が自ら考案、製作した。窯築職人が築造したともいう。焚口は北側に4つ開き、上部で煙突に繋ぐ。この窯では、乾燥後の粘土作品に対して松割木が投じられた。600-700度で8時間前後をかけて素焼していた。煉瓦造。奥行き1.8m、幅1.6m。 ◆文化財 寛次郎作品、意匠作品、遺愛品、関連の史資料、蒐集品、寄贈品などが、各室、展示室に数多く展示されている。 ◈寛次郎作として近代、1915年「誕生歓喜壷」、1936年「白釉筒描菱型水注」、1939年「草紋扁壷」、現代、1951年「黄釉魚文扁壷」、1953年「鉄釉筒描花文隅切鉢」、1953年「押型黄碗」、1955年「呉洲泥刷毛目皿」、1959年「辰砂文扁壷」、1961年「呉洲貼文扁壷」、1963年「三色扁壷」、1965年「魚手絵丸喰籠」、1965年「緑釉貼文喰籠」、1966年「緑釉扁壷」。 ◈現代、1955年陶板「献空青煙」、1955年陶板「手読足解」、1955年陶板「独坐萬行」。 ◈現代、1960年陶彫「面」、1960年陶彫「魚」。 ◈近代、1937年木彫「少女」、1937木彫「犬」、1937年木彫「猫」、現代、1957年木彫「合掌」、1957年木彫「像」、1958年木彫面「母と子」、1959年木彫・面「獅子」、1960年木彫面「からくりの手」。 ◈寛次郎作として1階広間の囲炉裏の「自在」、「木彫二面像」、意匠としては「円形椅子、「木製ベンチ」、「竹製家具」、複製の「民族造型研蒐点」、近代、1937年に柳宗悦寄贈の「柱時計」、1937年に濱田庄司寄贈の「箱階段」がある。 ◈1階東の和室に寛次郎作の脇息「こま犬」は、古い家具の柱を利用した。意匠の額・自筆「翻」、黒田辰秋作の「飾り棚」。 ◈2階東の居間に「ブロンズ」(木彫写)、上段の間に作の「木彫像」「木彫面」。居間に意匠「折りたたみ式文机」。居間脇に河井博次の作品。 2階書斎に意匠の「椅子」。「机・椅子」、「拓本綴」、現代、1948年に川勝堅一寄贈の「大臼」。 ◈陶房西の中庭に「釉薬壷」、「猫石像」。 ◈主屋の表に架かる黒田辰秋作・棟方志功筆「記念館大看板」。 ◈各室の竹製の「電灯笠」、竹製の家具類は、寛次郎の意匠による。戦時中に台湾の職人に作らせた。木材不足を補うためのものだった。 ◈漆芸家・黒田辰秋の作品として、近代、1927年「拭漆欅真鍮金具三段棚」、1937年「拭漆欅真鍮金具印箪笥」、1927-1929年「卍文状差し」、1930年頃「根来鉄金具手箱」、昭和10年代(1935-1944)「赤漆彫花文帯留」「組み立て式弁当箱」。 ◈近代、1927年に結成された「上加茂民芸協団」の作品、黒田辰秋の「関連図面」9枚などの資料が保管されている。寛次郎は河井邸で、柳宗悦、黒田辰秋、青田五郎を引き合わせている。協団の存続のために尽力し、解散には関わったと見られている。その後、河井は黒田を物心面で支えた。 ◆仕事のうた 主屋2階の書斎に、河井寛次郎の言葉「仕事のうた」が掲げられている。 「仕事が仕事をしてゐます/仕事は毎日元気です/出来ない事のない仕事/どんな事でも仕事はします/いやな事でも進んでします/進む事しか知らない仕事/びっくりする程力出す/知らない事のない仕事/きけば何でも教へます/たのめば何でもはたします/仕事の一番すきなのは/くるしむ事がすきなのだ/苦しい事は仕事にまかせ/さあさ吾等はたのしみましょう」 ◆庭 建物に囲まれた中庭がある。笹などの植栽がある。 丸石が一つ据えられている。安来の知人より贈られた。当初は石燈籠が予定されていた。寛次郎はあえて丸石を希望したという。寛次郎は石を庭の各所に移動させ、最終的に茶室近くの現在の場所に落ち着いた。 陶房の西に藤棚がある。 ◆映画 映画「男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋 」(監督・山田洋次、第29作、1982年、松竹)では、「神馬堂」で寅(渥美清)と陶芸家(13世・片岡仁左衛門)が一服する場面がある。葵祭の場面も紹介されている。 河井寛次郎記念館は、陶芸家の家として劇中に登場し、酔っ払った寅さんを連れて帰る場面がある。 ◆鐘鋳町 鐘鋳町(かねい-ちょう)の地は、江戸時代には妙法院の寺領だった。江戸時代前期、1614年旧4月には、京都三条釜座の工人、下野国佐野郷天明の工人らが、方広寺・大仏殿の巨鐘を鋳造した鋳物場があったという。現在の当館の登り窯が釣鐘の蹈鞴場(たたら-ば)、炉鍛場だったという。当時の鐘鋳池も民家に残るという。以来、鐘鋳町の地名の由来になった。 寛次郎は登り窯を「鐘渓窯」と名付けた。鐘鋳町の「鐘」と、「渓」は清水の音羽川が近くを流れていたことに因むという。窯を譲った清水六兵衛への思いも含まれているという。 *参考文献・資料 河井寛次郎記念館案内書、『川勝コレクション 河井寛次郎作品集』、『京都の近代化遺産』、『京都窯芸史』、『柳宗悦と民藝運動』、『陶工 河井寛次郎』、『河井寛次郎の宇宙』、『日本のやきもの 京都』、『黒田辰秋の世界』、「京都産業大学日本文化研究所紀要 第20号 民藝運動の展開と上加茂民芸協團の結成」、『京都市の地名』、『昭和京都名所図会 1 洛東 上』、『京都大事典』、『シネマの京都をたどる』 、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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