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法音院 〔泉涌寺〕 (京都市東山区) Hoon-in Temple |
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法音院 | 法音院 |
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![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 寿老人 ![]() 御朱印 ![]() 本堂 ![]() 本堂内陣 ![]() ![]() ![]() 庫裏 |
法音院(ほうおん-いん)は泉涌寺山内にある。 泉涌寺の塔頭の一つであり、真言宗泉涌寺派総本山、本堂の本尊は不空羂索観音を安置する。 洛陽三十三観音巡礼第25番札所、泉山(せんざん)七福神、第7番、寿老人。 病平癒、水難・火難厄除、財運祈願、長寿などの信仰がある。ふくろうのお守り、健康長寿の福亀守りが授与される。 ◆歴史年表 鎌倉時代末、1326年/1326-1327年、当初は無人如導(むにん-にょどう)宗師により泉涌寺山内に創建されたという。 室町時代、1470年、応仁・文明の乱(1467-1477)により焼失する。 天正年間(1573-1592)、法音院分朱印地が記されている。 江戸時代初期、1665年/1664年-1665年、本多正貫、妻・みとも、幕府の支援により、覚雲西堂が現在地(泉涌寺山内極楽谷)に移して再建したという。以後、駿州田中城(静岡県藤枝市)城主・本多家の京都の菩提寺になる。当主位牌は幕末まで安置されることになっていた。なお、現在も引き続き祀られている。 ◆無人如導 鎌倉時代後期の僧・無人如導(むにん-にょどう、?-?)。詳細不明。男性。北野社への千日参籠を契機に出家した。泉涌寺などで活動し、律・浄土教学も学ぶ。1308年/1293年、一条安居院(上京区青木町)に移転させ悲田院を再興する。1311年、北野観音寺、1326年、法音院を創建する。9寺を建立した。1356年、第92代・伏見天皇皇女・進子内親王を落飾させた。観音寺(上京区)で亡くなった。 ◆春山玉秀 江戸時代前期の僧・春山玉秀(?-1628)。詳細不明。男性。法音院住持、泉涌寺17世だった。本多正重が帰依した。 ◆本多正重 室町時代後期-江戸時代前期の武将・本多正重(ほんだ-まさしげ、1545-1617)。男性。戒名は道喜(どうき)。三河(愛知県)の生まれ。父・本多俊正の4男。徳川家康家臣だった。1563年、三河一向一揆で家康に反し一揆方に付く。1564年、一揆鎮圧後、家康に帰参した。家康の下、歴戦を闘い、1575年、長篠の戦いで功を挙げた。その後、家康のもとを離れ浪人になり、滝川一益、前田利家の下を経て、1596年、再び徳川家に帰参した。1600年、関ヶ原の戦いに加わる。1614年・1615年、大坂の役で徳川秀忠軍に属し功を挙げ、1616年、加増され下総国舟戸(相馬)に1万石を与えられ大名になる。晩年、京都に隠棲し、法音院住持・春山玉秀(泉涌寺17世)に帰依したという。73歳。 譜代大名、槍の名手だった。信長は「海道一の勇士」と称した。 ◆覚雲西堂 江戸時代前期の僧・覚雲西堂(?-? )。詳細不明。男性。春山玉秀の孫弟子になる。1665年/1664年-1665年、法音院を現在地に移して再建したという。 ◆本多正貫 安土・桃山時代-江戸時代前期の大名・本多正貫(ほんだ-まさつら、1593-1672)。男性。父・長坂重吉の長男。正室は本多政澄の娘。外祖父・本多正重の長男・正氏が秀次事件で自害し、次男・正包も早世したため正重の養子になる。1593年、下総相馬藩藩主本多家2代になった。1594年、正重没後、旗本に降格、廃藩になる。これらは正重遺言によるともいう。1634年、書院番頭、1642年、大番頭になった。1664年、隠居した。80歳。 夫妻の墓所は法音院(東山区)にある。 ◆本尊 本堂安置の「不空羂索観音(ふくう-けんさく-かんのん/ふくう-けんじゃく-かんのん)」は、一面三眼八臂で、あらゆる人々を救う羂索(投げ縄)を持つ。 病いなく、財宝を得、水難火難を除き、人々に尊敬され、慈悲の心で暮らし、苦しみなく亡くなり、浄土に導かれるという。 ◆建築 ◈「書院」は、伏見桃山城の遺構の一部という。 ◈「本堂」は、第121代・孝明天皇の女御・英照皇太后(えいしょう-こうたいごう、1835-1897)の、近代、1897年の御大葬での御須屋(おすや)を移築した。御須屋とは、御陵・貴人の墓を造る際の工事の間覆いとして設けた仮小屋をいう。 ◆文化財 ◈紙本著色「本多道喜像(剛毅折衝相)」は、近代、1883年作になる。縦115×横39.1㎝。 ◈紙本著色「本多道喜像(念仏三昧相)」は明治期、19世紀作になる。老姿になる。縦114.7×横37.8㎝。 ◈紙本墨書「正重院(せいじゅういん)廟所等記録」は、江戸時代、19世紀作であり、本多氏廟所・位牌、法音院との関係などが記されている。縦27×横18.3㎝。 ◆本多氏 本多氏は、江戸時代前期、1703年に4代・正永が上野国(群馬県)沼田、江戸時代中期、1730年に6代・正矩が駿河国(静岡県)田中に転封になった。近代、明治期(1868-1912)も田中を居所にした。 なお、本多氏歴代の位牌は、現在も法音院に安置されている。 ◆七福神巡り 泉涌寺山内の「七福神めぐり」(成人の日)は、泉涌寺(泉山)七福神巡りとして塔頭9カ寺を巡る。現代、1951年以来続けられている。これらを福笹を持ちお参りしていく。 第1番は福禄寿・即成院、第2番は弁財天・戒光寺、番外の愛染明王・新善光寺、第3番は恵比寿神・今熊野観音寺、第4番は布袋尊・来迎院、第5番は大黒天・雲龍院、番外の楊貴妃観音・泉涌寺本坊、第6番は毘沙門天・悲田院、第7番は寿老人・法音院になる。 ◆フクロウ 当院と梟(ふくろう)には深い関わりがありお守りも授与されている。 泉山(せんざん)七福神の寿老人に因み、「福久老(ふくろう)」として幾久しい幸をもたらす。「不苦労(ふくろう)」として苦労知らずの縁起ものとした。さらに、「福籠(ふくろう)」は福籠(ふくこも)る。「梟長寿(ふくろう-ちょうじゅ)」として不老長寿に掛けた。 夫婦円満、首が一回転することから、周りをよく見渡せるとして交通安全守護、眼光鋭く、見極めが効くとして商売繁盛、知恵梟として学業成就祈願、招福の福梟などとされた。 ◆墓 ◈本多正貫夫妻、家臣の墓が本多山(現・今熊野本多山町内)より移されている。 ◈正貫が建立した父・正重の石碑(亀跌)が立つ。 ◆体験修行 写仏(観世音菩薩、大日如来、阿弥陀如来)が体験できる。本堂の内陣参拝、茶菓が頂ける。写仏会・本堂内陣の参拝(毎月18日)。 ◆年間行事 泉山(せんざん)七福神巡り(1月成人の日)。 *年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『京都・山城寺院神社大事典』、『京都大事典』、『洛陽三十三所観音巡礼』、『京都御朱印を求めて歩く札所めぐりガイド』、『京都観音めぐり洛陽三十三所の寺宝』、『京都のご利益めぐり』、『京都のご利益手帖』、『こころ美しく京のお寺で修行体験』、『京の福神めぐり』、泉涌寺ウェブサイト、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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