園通寺 (京都市左京区)
Entsu-ji Temple
園通寺 園通寺 
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山門


山門


山門






山門、天寿洞






辨才尊天


さざれ石







鐘楼






シモクレン









「柿落葉 踏ミて たづねぬ 円通寺」 高浜虚子


御籠




玄関






海音堂(観音堂)






庭園、奥より借景の比叡山






三尊石






スギゴケのコロニー


生垣・杉の巨木




生垣・比叡山の山並




































土蔵


【参照】「切通石碑」


【参照】「切通石碑」、近くの峠の開削工事の跡を示している。
 洛北幡枝(はたえだ)の地に円通寺(えんつう-じ、圓通寺)がある。正式には、大悲山勅願所御幸御殿円通院という。借景庭園で知られている。
 臨済宗妙心寺派、本尊は聖観音菩薩。
 京都洛北・森と水の会。
◆歴史年表 江戸時代、正保年間(1644-1648)/1648年まで、後水尾上皇(第108代)は離宮の幡枝小御所(幡枝御殿、幡枝御茶屋)を営む。現在地には下離宮があり、庭園が作庭されている。東福門院を伴い、観月など数度の行幸がある。
 1670年、文英尼(ぶんえいに)は、隠元を招請し仏像開眼を行う。隠元筆の山号扁額も用意する。
 1672年、後水尾上皇より、第112代・霊元天皇の乳母・文英尼に幡枝離宮(幡枝小御所、幡枝御殿)が下賜され、山荘になる。(『東北歴覧之記』)。天皇は修学院離宮を造営する。
 1678年、文英尼は、影川宗隆(本如実性禅師、妙心寺龍庵祖士)を勧請開山として寺に改める。現在の本堂が宮廷より贈られた。霊元天皇は同寺護持のための宸翰を寄せる。
 1680年、霊元天皇の勅願寺になる。(「霊元天皇宸翰)。現在の御幸客殿は、東福門院御所より移築された。
 1864年、禁門の変の際に、公家・一条実良、妹・美子(後の昭憲皇太后)らが寺に避難している。
 現代、1954年、庭園は国の名勝に指定された。
 2002年、失われつつある借景を目前にして、前庭の写真撮影が解かれる。
 2007年、京都市眺望景観創生条例施行により、当寺の「庭園からの眺め」が保全された。
 2015年、山門の天寿洞が建立された。
◆景川 宗隆 室町時代前期-後期の臨済宗の僧・景川 宗隆(けいせん-そうりゅう、1425-1500)。男性。諡号は本如実性禅師、法名は紹隆。伊勢(三重県)の生まれ。雲谷玄祥、義天玄詔、桃隠玄朔に師事した。龍安寺の雪江宗深の法嗣になる。大徳寺、妙心寺、龍竜安寺住持になった。妙心寺・大心院の開山になる。76歳。
◆文英尼 江戸時代前期の尼僧・文英尼(ぶんえい-に、1609-1680)。父・贈左大臣・園其任(そのもととう)。女性。第108代・後水尾天皇の生母・中和門院(近衛前子)に女官として仕えた。第112代・霊元天皇の乳母になる。大名・京極忠高に後室として嫁いだという。1637年、夫没後出家し、文英尼と号した。以後、現在の円通寺の地に庵を結び、禁中安泰、両親夫の菩提のための寺建立を願い、輪王寺宮(りんのうじのみや)らを通じ幕府に請願した。71歳。
 戒名は円光院瑞雲文英大姉。
◆徹源 性通 江戸時代中期の僧・徹源 性通(?-1715)。男性。性通禅人。文英尼の忖度により、円通寺創建の相談を受けた。尼没後、住持になり、潮音堂を建て、三十三所観音像を安置した。門前の鞍馬街道拡張に際して、「切通碑銘」の撰文を寄せた。隠居寺として、帰源寺を再建する。
 墓は帰源寺(左京区)にある。
◆後水尾 天皇 安土・桃山時代-江戸時代前期の第108代・後水尾 天皇(ごみずのお-てんのう、1596-1680)。男性。政仁(ことひと) 。法名は円浄。父・第107代・後陽成天皇、母・関白・近衛前久の娘・前子(さきこ、中和門院)の第3皇子。1600年、親王宣下、1611年、後陽成天皇から譲位され即位した。江戸幕府は朝廷に政治的な介入、統制を行い、1613年、「公家衆法度」「勅許紫衣(しえ)法度」、1615年、「禁中並公家諸法度」を公布した。1618年、典侍・四辻与津子(およつ)との間に第1皇子・賀茂宮、1619年、文智女王(梅宮)が誕生した。幕府は、1616年、家康の死、1617年、後陽成上皇の死もあり、予定されていた将軍徳川秀忠の娘・和子(東福門院)の入内を延期する。幕府は与津子を排し、天皇の延臣6人を流罪処分にした。その後、1620年、和子(東福門院)が入内になり女御とした。1624年、和子は皇后宣下、中宮になる。武家出身の中宮は異例であり、平清盛の娘・徳子(建礼門院)以来になる。1627年、紫衣事件では、天皇が僧侶に与えていた紫衣着用の勅許を幕府が無効にした。幕府に抗議した大徳寺などの僧らを幕府は流罪にした。幕府は仙洞御所の造営を開始する。天皇は退位を決意し、1629年、東福門院が産んだ7歳の興子(おきこ)内親王(後の第109代・明正天皇)に突然に譲位した。女帝への譲位は一代で血統が絶えるため、幕府には打撃になる。後水尾上皇は仙洞御所に住み、第109代・明正天皇、第110代・後光明天皇、第111代・後西天皇、第112代・霊元天皇まで4代に院政を敷いた。禅宗の一糸文守に傾倒し、1651年、相国寺で落飾し円浄と号した。
 幕府による所司代などを通じての干渉、「禁中並公家諸法度」の制定、紫衣事件、1629年、春日局(お福)の無位無官の身での拝謁強行などにより幕府へ不満を持つ。明暦年間(1655-1659)、修学院御茶屋を造営する。学問を好み「学問講」を設けた。智仁親王らに歌学を学び、1625年、親王から古今伝授を受けた。『伊勢物語御抄』『当時年中行事』、歌集『後水尾院御集』 (原名『鴎巣集(おうそう)』) がある。茶道、華道に通じ、2世・池坊専好は天皇の庇護を受け、天皇は立花の会を催した。85歳。
 陵墓は泉涌寺内の月輪陵(東山区)になる。
◆玉淵 江戸時代の日蓮宗の僧・玉淵(?-?)。詳細不明。男性。妙蓮寺の僧。妙心寺塔頭・雑華院、高槻の普賢寺の庭も作庭したという。
◆依田 義賢 近現代の脚本家・依田 義賢(よだ-よしかた、1909-1991)。男性。京都市の生まれ。京都市立第二商業学校卒業後、銀行に勤務した。1930年、日活太秦撮影所脚本部に入り、1931年、サイレント映画「海のない港」が初脚本作品になる。1936年、第一映画に移籍し、監督・溝口研二と出会い、トーキー「浪華悲歌」で評価を受ける。溝口のために脚本を手がけ、「西鶴一代女」(1952)、「雨月物語」(1953)、「残菊物語」(1963)など数多い。1971年より、大阪芸術大学映像学科教授に就任した。「悪名」シリーズを手がけ、1980年、熊井啓監督「天平の甍」などがある。82歳。
 墓は円通寺にある。
◆仏像 ◈方丈(本堂)に、本尊の「聖観音菩薩」を安置する。
 ◈海音堂(観音堂)に、後水尾上皇の命により、日本黄檗宗の祖・隠元(1592-1673)が中国より請来したという「不空羂索観音」を安置する。
◆建築 表門、鐘楼、玄関、客殿、庫裡、本堂、茶室などがある。
 ◈「客殿」は、東福門院御所より移築された。
 ◈かつて、三猿堂、白樺庵、霊泉庵、潮音堂、京見台などがあった。
 ◈2015年、山門「天寿洞」が建てられる。
◆借景庭園 国の名勝である枯山水式の平庭は、御幸御殿(客殿)の東にある。
 杉・檜の巨木を通し、築山に自然の比叡山を見立てた借景名園として知られている。
 手前の御幸御殿(客殿)の柱と石庭の苔、高さを抑えた巨石、石組みは長短の二連により構成される。さらに、杉・檜・・混ぜ垣、その奥の竹林・比叡山の景色が広がる。無駄を排した横と縦の直線的な構成と、彼方の緩やかな比叡山の山容を違和感なく対比させている。建物の細い柱と、杉・檜の巨木は額縁として連関し一体化させている。
 比叡山までの距離は6km、山頂の仰角は7.5度、生垣の天端仰角は1度であり、床を高めにし自然に景色が目に入るように調整されている。借景の定義について、近現代の美術家・岡本太郎(1911-1996)は「自然と反自然的要素を対立のまま結合する技術」とし、「芸術の弁証法」であるとした。
 現在は、400坪(1320㎡)の杉苔庭がある。かつて苔庭ではなく白砂敷きだったという。40数個の露頭した岩盤巨石があり、石の大部分(2/3)を土中に埋めて配置されているという。石組はどれも低く抑えた横石が多く用いられ、左手(北側)に集められる。四角く刈り込まれたツツジも配される。三尊石も置かれている。石は鴨川流域・西山・南禅寺山・四国・紀州の海石も集められた。寺側は、ほとんどの石は紀州産の海石(結晶片岩・鉄岩、チャートなど)としている。
 低く抑えられた生垣(混ぜ垣、160㎝)は、約50種の樹木からなる。さらに奥に植栽があり、新たに整えられつつある。左右、生垣の奥にも楓の植栽があり、紅葉の頃に趣を添えている。
 庭は、この地にかつてあった後水尾上皇が造営した広大な幡枝離宮(1639)の上御茶屋・下御茶屋の庭を伝えている。離宮は、「幡枝小御所」「幡枝茶園」とも呼ばれた。上皇は、12年間の歳月をかけ、比叡山の眺望きくこの景勝地を探し当てたという。景観の美しさは、比叡山を「都富士」に喩えるほどのものとされた。かつて、柿、ツツジの寺としても知られたという。上皇・霊元天皇らも頻繁に訪れた。
 後水尾上皇は、近くの岩倉付近に長谷殿、岩倉殿などの離宮も営んでいる。ただ、水利がないため、後に修学院離宮(1653-1655)を造営した。修学院離宮も借景の手法を用い、円通寺庭園が原型になったといわれ、ほかの離宮庭園との共通点も多いという。
 作庭者は不詳とされる。ただ、妙心寺塔頭・雑華院の庭園と酷似しているとされ、作庭した僧・玉淵(ぎょくえん)の手によるともいう。なお、隠元(1592-1673)は『盤陀石之記』に庭について記している。
◆文化財 ◈「紙本墨書 霊元天皇宸翰御消息」(重文)。
 ◈客殿の扁額に隠元筆の「大悲山」「円通寺」、近衛信伊筆の「弐猿堂」が掛かる。
◆景観 寺よりの借景は、比叡山、松ヶ崎山、幡枝山、岩倉の丘陵地などによる。かつて京都に多く見られた借景庭園は、今はほとんどが失われ、当寺の借景は数少ないものの一つになっている。
 寺周辺でも、比叡山の景観を破壊する宅地開発計画があり、現代、1992年にかつて「岩倉五山」といわれた一条山(左京区岩倉)が違法開発により破壊された。一条山は古代より磐座として崇敬されていた。2002年、寺は失われつつある景観を目前にして、それまで禁じていた前庭の写真撮影を解いた。
 2007年、京都市眺望景観創生条例施行により、当寺の「庭園からの眺め」保全のため、規制区域に指定された。以後、「眺望空間」「近景」「遠景」が保全され、比叡山の眺望・借景が確保された。ジャーナリスト・筑紫哲也(ちくし-てつや、1935-2008)は、円通寺を愛し、「最後の借景」と表現し景観保護に言及し続けた。
◆映画 アニメーション『耳をすませば』(監督・近藤喜文、脚本・製作プロデューサー・宮崎駿、スタジオジブリ、1995年)の背景画の原点に、円通寺の借景庭園があるという。
◆墓 ◈墓地に文英尼の碑銘がある。
 ◈脚本家・依田義賢の墓がある。
◆遺跡 寺の周辺には遺跡が多い。南に来栖野瓦窯(くるすのがよう、来栖野瓦屋)跡があり、平安京造営の際に大極殿用の官瓦窯があった。ほかに幡枝古墳、本山古墳、ケシ山古墳などがある。
◆花暦 境内にはツツジ、ミヤマツツジなどの原種もあり自然交配により毎年、新種が発見されているという。
 
ツバキ・キリシマツツジ・サツキ(3-5月)、サルスベリ・ハス(9-11月)、サザセンカ・モクセイ(9-11月)、紅葉(11月)、ワナンテン・ロウバイ・センリョウ(12-2月)。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*年間行事(拝観)などは、中止、日時・内容変更の場合があります。
*参考文献・資料 『京都・山城寺院神社大事典』、『京都古社寺辞典』、『京都大事典』、『昭和京都名所図会 3 洛北』、『京都の寺社505を歩く 上』、『歴代天皇125代総覧』、『京都 四季の庭園』、『京都下巻 洛北・洛南』、『京都シネマップ 映画ロマン紀行』、『週刊 日本庭園をゆく 19 京都洛北の名庭 3 曼殊院 円通寺 詩仙堂』、ウェブサイト「コトバンク」


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円通寺 〒606-0015 京都市左京区岩倉幡枝町389   075-781-1875  10:00-16:30 (12-3月 10:00-16:00)
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